HISTORICAL PERSON · 1881年没

ルイス・ヘンリー・モーガン

アメリカの文化人類学者。弁護士のかたわらイロコイ族を調査し、『イロコイ同盟』などを著して、のち民族学研究に専念した。

生涯
1881年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ロチェスター)
出生地
アメリカ合衆国(オーロラ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ルイス・ヘンリー・モーガンは、1818年11月21日にニューヨーク州オーロラ近郊で生まれ、1881年12月17日に没した、十九世紀アメリカの文化人類学者である。祖先はウェールズから1636年に新大陸へ渡った開拓者ジェームズ・モーガンとされ、父ジェダイアは、先妻アマンダが五人の子を産んで亡くなったのち、ハリエット・スティールと再婚し、八人の子をもうけた。ルイスはそのひとりである。父は1826年に亡くなったが、五百エーカーの土地と家畜を一家の扶養のための信託として残し、そのなかにはルイスの大学教育のための資金も含まれていた。

カユーガ・アカデミーでラテン語、ギリシア語、修辞学、数学などの古典を学んだおかげで、ニューヨーク州スケネクタディのユニオン大学を二年で終え、1840年に二十二歳で卒業した。力学や光学などの科学も学び、フランスの博物学者キュヴィエの著作に強い関心を抱いた。大学の学長エリファレット・ノットは、学生を厳しい規律のもとに置いた人物で、学生たちはこれを避けるため、禁じられた秘密の友愛会を作った。モーガンも1839年にその一つカッパ・アルファ協会に加わった。1841年1月1日には、カユーガ・アカデミーの友人たちとゴルディアスの結び目という秘密結社を作り、のちにこれをイロコイ騎士団、さらにイロコイの新連合へと改めた。

結社は、イロコイ人の精神をよみがえらせようとする集まりだった。メンバーは言語を学び、イロコイ風の名を名乗り、歴史的なイロコイ諸部族の編成にならって組織を作った。新入りは「インディアン化」と呼ばれる秘密の儀式で、精神的にイロコイ人になったとされる。1840年に卒業するとオーロラに戻って法律を学び、ロチェスターでの弁護士開業は1842年とも1844年冬からともいわれる。しかし経済不況のなかで依頼人は見つからず、エッセイを書き、『ニッカボッカー』誌に「アクエリアス」の筆名で発表した。かたわら、郷里の近くに住むイロコイ連邦の生活と文化に関心を持ち、その「保護」を目的とする運動を始めた。民族学的な調査も行い、1847年に『アメリカン・レヴュー』紙に『イロコイ族についての書簡』を発表した。1851年に『イロコイ同盟』、1857年に『イロコイ族の出自の規律』を刊行し、1859年に法律業をやめて民族学の研究に専念した。

その後は調査を広げ、民族学者、宣教師、商人、領事、入植者らに質問状を送り、諸民族の親族名称体系のデータを集めた。1871年に『人類の血縁と婚姻の諸体系』を刊行し、1875年に科学アカデミー会員に選ばれ、アメリカ学術振興協会に民族部会を設けて初代部長を務めた。1877年には主著『古代社会』を刊行した。インディアン社会の観察から、人間社会の発展を「野蛮」「未開」「文明」の三段階に分けたものである。1880年には同協会の会長を務めた。政治の面でも、共和党員として1861年にニューヨーク州議会の議員、1868年と1869年に州上院議員を務めた。

モーガンの古代史研究はマルクスやエンゲルスに大きな影響を与えたとされる。ただ、学説自体は現代では否定されており、発展段階を白人文化の優位の立証に用いたことは強く批判されている。インディアン側からも、ヴァイン・デロリア・ジュニアが、人類学者の調査は偏見を通して行われ、現実の共同体とはかけ離れていたと批判した。一方で、「グループ婚」の研究には再評価もある。日本では布村一夫が熱心に研究し、その学風は石塚正英に引き継がれている。

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