HISTORICAL PERSON · 1952年没

ジョン・デューイ

アメリカの哲学者で、パース、ジェームズと並ぶプラグマティズムの代表的思想家。機能主義心理学にも貢献した。20世紀前半を代表する進歩的な民主主義者。

生涯
1952年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(バーリントン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ジョン・デューイは、1859年10月20日にアメリカ合衆国バーモント州バーリントンの食料品店に、父アーチボルトと母ルシナの三男として生まれた哲学者である。デューイ家はイギリスから移住した開拓者の末裔で、父はその四代目だった。裕福ではなく、少年時代には新聞配達や農場の手伝いで小遣いを稼いだ。15歳で、兄が通っていたバーモント大学に入学し、チャールズ・ダーウィンの進化論やオーギュスト・コントの実証主義哲学などに感化された。成績優秀のため優等学生の組織に迎えられている。卒業後はペンシルベニア州で2年間高校の教師を務めたが、自分には向かないと考えるようになり、バーモント州の小学校に1年ほど勤めた。

1882年にジョンズ・ホプキンズ大学大学院へ入り、心理学者スタンレー・ホールのもとで学びながら、同大学の心理学研究所で働いて博士号を得た。出版されず紛失した博士論文の題は「カントの心理学」だったという。1884年からミシガン大学に勤め、2年間の講師、助教授を経て、1889年に30歳で教授になった。この時期はヘーゲルとドイツ観念論を主に研究していたが、1891年にドイツ留学から戻って講師となったジョージ・ハーバート・ミードと親交を結び、ヘーゲルの影響圏から抜け出していく。ミードはウィリアム・ジェイムズの教え子で、デューイもジェイムズから影響を受けるようになった。

1894年、新設されたシカゴ大学に哲学科の主任教授として、ミードとともに招かれた。この時期に経験に基礎づけられた知識の理論を築き、同僚との共著として刊行して、のちに新しいプラグマティズムと認められた。1896年には、既存の心理学を根底から覆したともいわれる論文「心理学における反射弓の概念」を発表し、同じ年に実験学校をつくった。最初は個人宅を借り、生徒は16人、教師は1人だったが、1898年秋には実験室や食堂を備えた校舎に移り、生徒は82人に増えていた。3年間の実験の報告を基に出版されたのが、教育理論の名著として知られる『学校と社会』(1899年)である。実験学校は1903年まで続き、のちにデューイスクールと呼ばれた。

1904年からはニューヨークのコロンビア大学で哲学教授となり、晩年まで50年近く務めた。精力的に研究と執筆を続け、アメリカの哲学界・教育界の第一人者となった。1905年にアメリカ哲学会の会長に就き、歴史家のチャールズ・ビアードや経済学者のソースティン・ヴェブレンらとともに、ニュースクールを創設した。1916年に『民主主義と教育』を発表し、1919年から1921年にかけて日本と中国を訪れ、中国には長く滞在した。のちにトルコやメキシコに招かれ、1927年には民主主義を擁護する『公衆とその問題』を著した。1928年にはソビエト連邦を視察し、1930年代にはニューディール政策に対応して、実験的で協同的な思考を説く『自由主義と社会的行動』などを書いた。1938年の『論理学:探究の理論』や1949年の『知ることと知られたもの』も著している。結婚は二度で、最初の妻アリス・チップマンとの間に六人の子があり、再婚した妻はロベルタ・グラントである。

デューイは自身をプラグマティストとは考えず、「道具主義」を称した。知識を、環境との相互作用を方向づける実践的な道具とみなし、不変の実在を前提とせず、行為の結果を通じて判断を修正する探究の過程を重んじた。1952年6月1日に没した。

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