伝記
ルイ・オーギュスト・ブランキは、1805年2月1日にアルプ=マリティーム県のピュジェ=テニエールで生まれた、フランスの社会主義者・革命家である。十九世紀フランスのほとんどの革命に参加し、のべ三十三年余りを獄中で過ごしたことから「幽閉者」と呼ばれた。父ジャン・ドミニクは国民公会の議員を務め、ジロンド派として投獄された経験があり、のち第一帝政下でピュジェ=テニエールの郡長になった。兄は自由貿易を支持する経済学者アドルフ・ブランキである。母ソフィは十六歳のとき三十八歳の父と結婚し、家庭内の関係は不和で、兄と父が母と争う一方、オーギュストは母との愛情を保った。十三歳でパリに出て、兄が教えるマサン学院に寄宿してリセ・シャルルマーニュに通い、のち法律と医学を学んだ。
早くから政治に身を投じた。若いころは復古王政への敵意からボナパルト主義に傾いたが、十七歳のときにはラ・ロシェルの四人の軍曹の裁判に反対して活動した。1824年からはカルボナリ党員として、王政復古に抗する当時の共和派の陰謀のほとんどに関わった。1827年には学生デモで三度負傷し、1828年にはギリシアの独立を助けるため遠征を企てたが、旅券がなく、故郷までで終わった。1829年にピエール・ルルーの新聞『ル・グローブ』に参加し、1830年の七月革命に加わって、勲章を受けた。革命後に共和派の人民之友協会に入り、ブオナロッティやラスパイユ、バルベスらと知り合った。
七月王政下で大ブルジョワの支配に反対して極左共和派の運動を続け、1831年に投獄されたあとも、1832年と1836年に収監された。1839年5月12日には、バルベスらと結成した秘密結社「季節協会」を率いてパリ市庁と警視庁を襲撃したが、失敗して逮捕され、死刑判決を受けた。のちに終身禁錮に減刑され、1847年4月に釈放された。結社は、七人の「週」、四つの週からなる「月」、三つの月からなる「季節」を経て、四つの「季節」の全体を「年」としてブランキが指揮する序列で構成されていた。
1848年の二月革命に加わり、左派勢力の結集に力を注いだが、臨時政府と対立し、国会乱入を指導して逮捕され、懲役十年の判決を受けた。1869年に大赦で釈放されたが、翌1870年、ナポレオン3世の従兄に射殺された記者ヴィクトル・ノワールの葬儀に参加し、その後暴動化したデモを扇動したとして再び逮捕され、死刑判決を受けた。トーロー要塞の土牢に幽閉されている間に『天体による永遠』を書いた。1871年にはパリ・コミューンの「大統領」に選ばれ、コミューン側はティエール政権に、囚人解放とブランキの釈放の交換を求めたが拒まれた。1872年には健康の悪化を理由に懲役刑へ減刑され、同年『天体による永遠』を出版した。1879年に釈放されて活動を再開し、1881年1月1日にパリで脳卒中のため亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。
武装した少数精鋭の秘密結社による権力奪取と、人民武装による独裁を主張し、その理論はブランキ主義と呼ばれてヴァイトリング、トカチョーフ、レーニンへ受け継がれた。マルクスは彼を革命的共産主義者として称揚した。
同じ年に亡くなった人物
- ニコライ・ピロゴフ (1881年没)
- フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ (1797-1881) (1881年没)
- アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ (1881年没)
- 東太后 (1881年没)
- ジェームズ・コリンソン (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- クロード・ベルナール (1878年没)
- Ernest Cadine (1978年没)
- アルベール・ベナール (1934年没)
- ピエール=シモン・ラプラス (1827年没)
- アドルフ・アダン (1856年没)