伝記
クロード・ベルナールは、1813年7月12日にフランス東部ローヌ地方の村サン・ジュリアンで生まれた医師、生理学者である。ワイン商を営む父と、農民の母のもとに生まれ、村のイエズス会の学校で初等教育を受けた。のちにリヨン大学に入学したが、薬剤師の助手になるため大学を離れた。余暇には喜劇の台本書きに打ち込み、その一作『ローヌのバラ』は人気をいくらか得たという。21歳ごろには劇作家を志してパリへ向かったが、台本を読んだ評論家は作家の道をあきらめ、医学を志すよう彼に諭した。ベルナールはこの助言に従った。第二の原稿である5幕の戯曲『ブルターニュのアルチュール』は、彼の死後9年目の1887年に友人によって出版された。
1834年にパリに移ってパリ大学の医学部に入り、1836年に実習医試験に、1839年にインターン試験に合格した。インターン試験の成績は、29人の受験者のうち26位であった。そして、1841年にフランソワ・マジャンディー教授の助手になった。マジャンディーは、講義の場で仮説を実験によって検証してみせ、予想どおりにいかない実験があると、自分の説明した仮説を笑いとばした。この講義に触れて、ベルナールは生理学の法則を発見することに思いがけない情熱を抱くようになり、生理学的実験の専門家となった。しかし、師の認識論的な前提にはなじめず、関心は科学から哲学へと広がっていった。
1843年に医学の学位を取り、1845年にマリー・フランソワーズ・マルタンと見合い結婚した。1847年にはフランス生物学会を創設した。1853年に自然科学の博士号を得て、1854年にはパリのソルボンヌ大学の生理学教授を務め、科学アカデミーの会員にも選ばれた。1855年にマジャンディーの後を継いでコレージュ・ド・フランスの医学教授に就任した。膵臓の消化機能や肝臓のグリコーゲン生成機能の発見、クラーレや一酸化炭素、麻酔薬の作用の仕組みの解明などの業績を残した。神経系の働きについても多くの研究を行った。
「内部環境の固定性」という考え方を提唱し、これはのちにアメリカの生理学者ウォルター・B・キャノンによって、ホメオスタシスの概念に発展させられた。1862年には、ルイ・パスツールとともに低温殺菌法の実験を行った。1860年ごろから健康を損ない、故郷のサン・ジュリアンで療養しながら、自らの研究の方法を省みた。1865年の『実験医学研究序説』は、その成果の代表作である。1868年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、同年にソルボンヌの講座を辞して国立自然史博物館の生理学教授となり、1869年には元老院議員に任命された。評価されたのは、最後の20年ほどだったとされる。1876年にはコプリ・メダルを受けた。
動物実験の方法の創始者とされる彼は、麻酔法が確立しつつあった時代でも、動物に麻酔を用いずに犬などを生体解剖した。その凄惨さに心を痛めた妻と娘は、動物実験に反対する団体を立ち上げ、動物の保護施設を作ったとされる。夫婦は1869年に別居ないし離婚した。その後は、医学的、哲学的な研究に打ち込んだ。1878年2月10日、パリで没した。
同じ年に亡くなった人物
- ウジェーヌ・ベルグラン (1878年没)
- フェルディナント・シュール (1878年没)
- アルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラ (1878年没)
- ジョージ・ギルバート・スコット (1878年没)
- 菊池容斎 (1878年没)
同じ地域に関係する人物
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- カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1783年没)
- シャルル=フランソワ・ドービニー (1878年没)
- シャルブ (2015年没)
- アレクサンドル・カウリバルス (1925年没)