HISTORICAL PERSON · 925年没

アルベリーコ1世・ディ・スポレート

スポレート公。教皇軍と共にサラセン人をガリリャーノで撃退しローマの執政官となり、子孫は後にトゥスクルム家としてローマに権力を築いた。

生涯
925年没
死亡地
イタリア共和国(ヴィテルボ県 / オルテ)
出生地
—
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴィテルボ県)

伝記

アルベリーコ1世・ディ・スポレートは、カメリーノ侯にしてスポレート公で、925年ごろに没したとされる人物である。生年は伝わっていない。ローマで権勢を振るったのち、追放されて殺されたが、その子孫はトゥスクルム家としてローマで権力を握り、多くの教皇を出した。

889年のトレッビア川の戦いで、スポレート公グイード3世の小姓として名が見えるのが最初の記録である。のちにフェルモ伯だったともいわれるが定かではなく、カメリーノ侯の地位も得た。スポレート公位については、先代の公グイード4世を殺害して継いだとされる。その殺害の年は897年ともいわれる。898年にはイタリア王ベレンガーリオ1世から公位を認められ、見返りに王を支えて、899年か900年に襲来したマジャール人と戦った。在位は898年から922年とされるが、公位を保った期間については、920年ごろまでとする説もあり、一定しない。

909年、ローマで最も有力だったトゥスクルム伯テオフィラットとテオドラの娘マロツィアと結婚し、「ローマ人のパトリキウス」の称号を得た。この同盟は大きな利益をもたらした。教皇セルギウス3世を支持していたが、906年ごろ、教皇がベレンガーリオに皇帝の冠を授けようとすると、隣のトスカーナ辺境伯アダルベルト2世と結んで道をふさぎ、ベレンガーリオがローマへ達するのを妨げたと伝えられる。

914年、教皇ヨハネス10世と同盟を結び、915年6月のガリリャーノの戦いで、教皇軍や南イタリアの諸侯、ビザンツ軍とともにイスラム勢力(サラセン人)を敗走させた連合軍の指導者の一人となった。彼はスポレートとカメリーノの兵を率い、トゥスクルム伯テオフィラットの軍と合流して戦ったという。この功により、917年に「ローマ人の執政官」に任命された。しかし、ローマでは暴君となり、教皇と民衆によって追放されたと伝えられる。のちにオルテで殺害されたが、その年は924年から926年のあいだとされ、はっきりしない。マジャール人の傭兵に頼っていたことが原因だったと思われている。年代が確かな文書に最後に現れるのは917年で、その盛衰の時期は、どちらも明確ではない。

マロツィアとのあいだには4人か5人の息子が生まれた。のちに教皇ヨハネス11世となる子、ローマの支配者となるアルベリーコ2世、コンスタンティーノ、ネーピ司教セルジョ、そして教皇ベネディクトゥス7世の父となるダヴィデまたはデオダートである。娘もおり、ビザンツ皇帝ロマノス1世の息子との縁組が試みられた。ヨハネス11世をマロツィアと教皇セルギウス3世の子とする説もあるが、否定する見方もある。

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