伝記
アマラスンタは、東ゴート王国の第3代君主で女王である。生年は495年ごろから500年ごろとされ、ラヴェンナで生まれた。初代国王で大王と呼ばれるテオドリックと、フランク王の妹アウドフレダの娘で、第2代国王アタラリックの母にあたる。姉妹にオストロゴタとテオデゴタがおり、テオドリックの娘は4人だったという。幼いころは父の宗教であるアリウス派の教育を受け、古典文学や哲学を学んで教養ある王女に育った。ゴート語、ラテン語、ギリシア語の3言語を操り、この語学力はのちに王妃としての務めに役立った。トゥールのグレゴリウスは、母アウドフレダとの間が複雑だったと伝える。
515年、アマル家の王族エウタリキと結婚した。彼はテオドリックの後継者となるはずの遠縁の男子で、数年後に亡くなるまでに息子アタラリックと娘マタスンタをもうけた。テオドリックは幼い孫のアタラリックを後継者に指名した。アマラスンタは522年か523年に若くして未亡人となり、526年に父が没すると、当時10歳の息子に代わって国を治めた。同じ年、グレゴリウスによれば、母が彼女を王族の誰かと再婚させようとしたため、彼女は従者トラギランと逃げたが、怒ったアウドフレダは武装した一隊を差し向け、兵士はトラギランを絞め殺し、王女を打って宮廷に連れ戻したという。
息子が即位すると、彼女は東方の皇帝へ使節を送ってテオドリックに認められていた権限の継続を求め、セプティマニアを甥のアマラリックに返し、父が没収していたボエティウスとシンマクスの子らの財産を返した。父譲りの外交の才があり、ビザンツ軍のイタリア侵攻を防ぐ最も安上がりな方法は皇帝と友好関係を保つことだと悟っていたとされる。近隣の王国に多くの使節を送り、その争いには介入しない妥協の政策をとり、夫を殺された姪アマラベルガをラヴェンナに迎えるなどした。ただ、女性であるため軍を率いることができず、表向きは目立たぬ態度をとって、息子を前面に立てて裏で動いた。ゴート人は、彼女が息子をローマ風の文化で育て、その放縦を罰しないことを非難した。彼女は不満だったが表には出さなかった。学者カッシオドルスを大臣に登用し、ローマ人を側近に多く置いた。
530年代の初め、彼女はテオドリックの甥でトスカーナ長官のテオダハドの野心に直面し、彼を呼び戻して不当に得た領土を返させた。テオダハドは恨み、皇帝の使節に近づいて、金銭と元老院の席と隠居先を条件にトスカーナを引き渡すと持ちかけたという。534年に若い王アタラリックが早世すると、彼女は王座を守るため、アマル家唯一の直系男子であるテオダハドを共同統治者とし、夫にした。翌535年、テオダハドは大臣たちを解任し、彼女が母の不審な死に責任があるとの噂を流した。彼女をラヴェンナから追い、ボルセーナ湖の島の要塞に幽閉した。ユスティニアヌス帝が逮捕を非難すると、テオダハドは彼女に、良い待遇を受けていると書く手紙を書かせた。帝の使節ペトルスが到着する前に、アマラスンタは敵によって入浴中に絞め殺された。この殺害は、ビザンツの将軍ベリサリオスがイタリアに介入する口実となり、約20年にわたって半島を荒廃させたゴート戦争を引き起こしたとされる。彼女の従兄弟にあたるフランクの王子たちも賠償を求め、テオダハドは賠償金の支払いを申し出た。彼女の死は535年4月30日とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス2世 (ローマ教皇) (535年没)
- ナラシンハグプタ (535年)
同じ地域に関係する人物
- ハドリアヌス5世 (ローマ教皇) (1276年没)
- アントニオ・マルゲリーティ (2002年没)
- スタニスワフ・ホジュシュ (1579年没)
- ジェローラマ・オルシーニ (1590年没)
- アレクサンデル4世 (ローマ教皇) (1261年没)