伝記
スピタメネスは、アケメネス朝ペルシア時代のソグディアナとバクトリアの豪族で、ソグド人の将軍である。紀元前370年頃に生まれ、紀元前328年に没したとされる。ダレイオス3世の死後はベッソスとともにアレクサンドロス大王に敵対したが、のちにベッソスを裏切り、さらにアレクサンドロスにも反旗を翻して、最後は暗殺された。
紀元前331年のガウガメラの戦いでペルシア軍がマケドニア軍に敗れると、バクトリアの総督ベッソスはダレイオス3世を殺して自ら王を称した。スピタメネスはベッソスとともにアレクサンドロスに対抗したが、ベッソスは敗れてバクトリアを追われ、スピタメネスも彼とともにソグディアナへ逃れた。そこで仲間のオクシュアルテスとともにベッソスを捕らえ、アレクサンドロス側に引き渡したとされる。ベッソスの宮廷人としてスピタメネスとダタメネスが主君を捕らえ、アレクサンドロスの将軍プトレマイオスに引き渡したという伝えもある。
アレクサンドロスがマラカンダ(現在のサマルカンド)を占領してシルダリヤ川方面へ向かうと、スピタメネスは紀元前329年に反乱を起こした。アレクサンドロスはシルダリヤ川近辺の現地人との戦いで重傷を負いながらもこれを平定し、アレクサンドリア・エスタタの市を建設していたところで、反乱の知らせを受けて将軍パルヌケスに鎮圧を命じた。ソグド人を率いてマラカンダを包囲したが、将軍パルヌケスの軍が救援に向かうと知って包囲を解いた。深追いしてきたパルヌケスの軍は歩兵2,000、騎兵300が全滅したという。アレクサンドロスはこの敗北を外に漏らさないよう部下に命じ、自らマラカンダの奪回に向かったが、スピタメネスはその到着前に町を引き払って姿を消した。行き先は西ともいわれたが、確かなことは誰にも分からなかった。紀元前328年にはバクトリアを攻めたものの、サトラップのアルタバゾスに撃退されている。この反乱の背景については、マケドニア側によるゾロアスター教の葬送習慣への干渉や家畜の略奪が原因だったとする説や、ベッソス引き渡しの見返りに期待した独立が認められなかったためとする説がある。
その後のスピタメネスは、スキタイ人やマッサゲタイ人と結び、ソグディアナ各地の都市住民を組織して、マケドニアの守備隊を襲った。討伐軍が来るか、来る前に撤退する戦い方で、1年以上にわたってマケドニア軍を攪乱した。これは遊牧民の戦法と同じであり、軍勢に多くの遊牧民が加わっていたことをうかがわせる。アレクサンドロスはギリシア人傭兵の増援を迎え、抵抗した都市を破壊して住民を強制移住させ、スキタイ人への切り崩しも行った。多くの将軍も動員されたため、スピタメネスの活動範囲は次第に狭まった。
紀元前328年にはクラテロスとの戦いで致命的な敗北を喫し、12月にはガバイの戦いでコイノスにも敗れた。逃亡を重ねた末、疲れた妻に暗殺されたとも、味方に暗殺されたともいわれる。いずれにせよ、その首はアレクサンドロスに差し出された。娘のアパメーは紀元前324年2月にセレウコス1世と結婚し、のちにセレウコス朝の王となるアンティオコス1世を産んだ。いくつかの都市は彼女にちなんでアパメアと名づけられた。スティーブン・プレスフィールドの小説『アフガニスタン戦役』では、スピタメネスは狡猾な軍事指揮官として描かれ、同盟したマッサゲタイに捕らえられて首を刎ねられたことになっている。