HISTORICAL PERSON · 918年没

コンラート1世 (ドイツ王)

フランケン大公から911年に貴族の選挙で東フランク王に選ばれた。この即位をドイツ王国の成立とみる見方もある。ザクセン公らと対立し、負傷後の918年、死の床で宿敵ハインリヒ1世を後継に指名した。

生涯
918年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州 / ヴァイルブルク)
出生地
—
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州)

伝記

コンラート1世は、881年ごろに生まれ、918年12月23日に没した東フランク王(在位911年から918年)である。コンラート若王、小コンラートとも呼ばれ、コンラディン家で唯一の東フランク国王となった。王になる前は、906年からフランケン大公を務めていた。カロリング朝の国王アルヌルフの孫にあたる。

コンラディン家はフランケンの貴族で、テューリンゲンのラーンガウ伯ゲープハルトを始祖とし、その子オードへと世襲された家系である。父はラーンガウ伯コンラート(大コンラート)、母はアルヌルフの娘グリスモント(グロスモント)とされる。弟にフランケン公となるエーバーハルト3世、ラーンガウ伯オットーらがいた。一族はカロリング家に忠実な支持者で、フランケンの覇権をめぐってバンベルクを拠点とするバーベンベルク家と激しく争った。父コンラートは892年にアルヌルフからテューリンゲンの統治を任されたが、906年にフリッツラール近郊で両派が衝突して殺された。バーベンベルク家の兄弟のうち2人も死に、残る1人も、ほどなく処刑された。こうしてコンラートはフランケン全域の大公となった。

911年、母方の叔父ルートヴィヒ4世が18歳で没して東フランクのカロリング家が断絶すると、同年11月にフォルヒハイムで、ザクセン公オットー1世とマインツ大司教ハットーの推挙を受け、貴族の選挙で国王に選ばれた。西フランク王のカロリング家の縁者を退け、母方でルートヴィヒとつながるコンラートが選ばれたのである。王を選挙で決めるのはゲルマンの風習で、小ピピンやアルヌルフの例がある。カロリング家の断絶を東フランク王国の終焉とみるなら、コンラート1世の即位をもってドイツ王国の成立とされる。ただし王国が実際に「ドイツ王国」と呼ばれはじめるのは約300年後のことである。ロートリンゲンのレギナールだけは忠誠を拒み、西フランクに付いた。910年にロートリンゲンのゲープハルトが亡くなると、ロートリンゲンの貴族たちは反乱を起こし、西フランク王シャルル(単純王)の側についた。912年と913年の二度の遠征は成果を上げられず、ロートリンゲンは失われて、アーヘンやトリーアのザンクト・マクシミン修道院もその中に入った。
即位後は、ザクセン公をはじめとする部族大公と対立が続いた。自らも大公のひとりだったため、権威の確立は難しかった。王は教会との同盟を保ち、前王の尚書局や高位聖職者、帝国修道院に頼って、カロリング的な強い中央権力をめざした。913年にはバイエルン公アルヌルフ(悪公)とその伯父でシュヴァーベン宮中伯のエルハンガーとの同盟をはかり、アルヌルフの母でエルハンガーの妹にあたるクニグンデと結婚した。しかしエルハンガーとその弟ベルヒトルトとは後に対立し、917年1月に二人を処刑した。同年、エルハンガーを支持してハンガリーに亡命していたアルヌルフがバイエルンに帰国したため、軍を率いて討伐に向かったが、負傷してフランケンに戻った。翌918年、死の床で王国の分裂を防ぐため、宿敵のザクセン公ハインリヒ1世を後継者に指名したとされ、ヴァイルブルクで37歳で没して、フルダ修道院に葬られた。

嗣子はなく、末弟のオットーも同年に亡くなったため、コンラディン家は弟のエーバーハルト3世が継いだ。だが彼も939年に反乱を起こして戦死し、一族はフランケン公の地位を失った。コンラートの娘ヒキナ(ヒッカ)は、ザーリアー家のヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世の妻となり、その子孫がのちにザーリアー朝として国王と神聖ローマ皇帝の位を世襲した。

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