伝記
ルートヴィヒ3世は、830年から835年ごろに生まれ、882年1月20日に没したカロリング朝の東フランク王である。若王(ザクセン王)とも呼ばれる。ドイツ人王ルートヴィヒと王妃ヘンマの三兄弟の次男で、兄にカールマン、弟にカール3世がいる。初めはフランケン、チューリンゲン、ザクセンを治め、後にバイエルンも受け持った。
若いころは軍事に携わり、858年と862年には東方のアボドリト人に対する作戦に出た。854年には、シャルル禿頭王とピピン2世に反対するアキテーヌの貴族の招きを受け、父や従兄のマインツ大司教カールにも促されて、軍を率いてガリアに入り、アキテーヌの王冠を得ようとしたが、リモージュまで進んだところで引き返した。帰国後は東フランクの貴族との結びつきを強め、父から次第に独立した。アダルハルト伯の娘と婚約し、865年には弟カール3世とともに父に反乱を起こしたが、この年のうちに和解し、父は残る領土を二人の息子に分けることを迫られた。このとき、ルートヴィヒはザクセン、チューリンゲン、フランケンを、カール3世はアレマンニアとラエティアを得ることになった。869年、アシャッフェンブルクでザクセン公リウドルフの娘リウトガルトと結婚した。彼女は意志が強く、政治的な野心を持つ女性で、のちに夫をより大きな目標へと駆り立てたという。この結婚は父子の緊張を高め、871年と873年にも反乱を起こしたが、そのたびに和解した。庶子にはフーゴー(850年ごろ-880年)とアダルハルトがいる。
876年8月に父が死去すると、兄弟は遺領を分割して王位を継いだ。ルートヴィヒは「フランク人の王」を称し、父をロルシュ修道院に葬って兄弟に対する優位を示した。父の主席顧問であったマインツ大司教リウトベルトも留任させた。兄弟は互いに独立して統治しながら協力し、争うことはなかった。同年9月、西フランク王シャルル2世が帝国の統一をもくろんでアーヘンを急襲し、ケルンを拠点にその領地へ進んだが、三兄弟はルートヴィヒを中心に連合軍を組織し、10月8日のアンデルナハの戦いで、はるかに大軍の西フランク軍を破った。若い王は兵士に白い衣を着せ、霊の軍勢のように見せたといわれる。11月にはネルトリンゲンで兄弟が会し、父の遺領の分割を確認した。歴史家は彼をザクセン王と呼ぶが、領土の大半を占めたザクセン本土をみずから訪れることはなかった。
878年11月、シャルル禿頭王の没後、その子吃音王ルイと互いの子の継承を尊重すると約束した。ところが879年4月に吃音王が死去すると、西の貴族の一派が彼を西フランクの王位に招いた。妻リウトガルトもこれに応じるよう勧め、ルートヴィヒは西フランクに侵入してヴェルダンまで進んだ。新王のルイ3世とカールマンがロタリンギアの西半分を譲ると、兵を退いた。880年2月のリブモント条約でこの獲得は確認された。同年には兄カールマンが嫡出子なく没し、バイエルンも手に入れて、広大な王国を築いた。
しかし879年ごろからノルマン人の侵略を受け、880年にエノーのティメオン近郊で勝利したものの、本人は病床にあった。コブレンツやトリーアが略奪され、義兄弟であるザクセン公ブルンらが戦死した。882年、男子の後継者のないまま死去し、東フランク王国は弟カール3世のもとで再び統一された。嫡出の男子ルイは876年に生まれ、879年にフランクフルトの王宮の窓から落ちて亡くなっており、娘ヒルデガルトは修道女となった。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス8世 (ローマ教皇) (882年没)
- Eudokia Ingerina (882年)
- ルイ3世 (西フランク王) (882年没)
- アスコルド (882年没)
- ガルシア・イニゲス (882年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アウグステ・フォン・プロイセン (1841年没)
- ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン (1825年没)
- Ruth Moufang (1977年没)
- フリードリヒ6世 (ヘッセン=ホンブルク方伯) (1829年没)
- エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1739年没)