伝記
ランドは、第121代のローマ教皇で、913年から914年まで在位した。ラテン語ではランドゥスとも呼ばれる。その在位は、教皇庁とローマの歴史の記録に乏しい「暗黒の時代」と呼ばれる期間に当たり、生涯について分かることは少ない。
教皇の伝記集『教皇の書』によれば、出身はローマ東方の教皇領サビナである。父は、フォルノーヴォ出身のロンバルディア系の裕福な伯タイノと伝えられる。家系は裕福な貴族で、銀行を営んでいたともいう。教皇になる前はサビナの司教区を率いていた。有力な友人たちが、彼が教皇となるのを助けたともいわれる。
先代アナスタシウス3世の死去のあと、ローマでは有力な諸派が自派の候補を立てようとして争い、約4か月にわたって空位が続いたとされる。913年7月7日に選ばれたともいわれ、実際の始まりは7月ごろから11月ごろまでの幅で考えられている。当時のローマで最も強い権力を持っていたのは、トゥスクルム伯テオフュラクトゥス1世と、元老院議員の称号を持つテオドラの夫婦だった。二人は教皇庁の財政を握り、ローマの民兵と元老院も支配していた。ランドはこの夫婦の擁立した候補だったと考えられ、教皇はほぼ完全にその管理下にあったと見られている。
在位の長さは、伝記集は4か月22日、別の記録は6か月26日、10世紀の年代記家フロドアールは6か月10日と、まちまちである。終わりは、914年2月5日にラヴェンナの文書に名が見える時と、後継者ヨハネス10世が選ばれた3月末か4月初めとの間に置かれる。在位中、ガリリアーノ川の拠点を根城にしたアラブの略奪者たちが、生まれた司教区にあるヴェスコヴィオのサン・サルヴァトーレ大聖堂を破壊した。教皇庁の文書は一つも残らず、唯一記録される行いは、サビナの司教区への寄進である。1431年の裁判記録に見えるもので、大聖堂を修復し、トッフィアに住んでいた聖職者が戻れるようにするため、大きな私財を贈ったという。また、テオドラの庇護を受けていたヨハネスを、ラヴェンナの大司教に任じたことが、在位中の目立った事績とされる。ヨハネスはのちの教皇ヨハネス10世である。一方で、テオドラに強いられて、ボローニャの大司教だった彼に叙階したともいわれる。教皇は、旧ヴァチカン大聖堂に葬られたとされる。
ランドは、それまで誰も使わなかった教皇名を名乗った最後の教皇で、次に前例のない名が現れるのは1978年のヨハネ・パウロ1世である。また、のちに誰にも継がれず、代数の数字も付かない唯一の名を持つ教皇としては、2013年にフランシスコが就任するまで、約1100年にわたり最も新しい例であった。オーストリアの芸術家集団は、記録の乏しさと短い在位を題材に、彼を「最も重要でない教皇」と歌に称えた。
同じ年に亡くなった人物
- ガルシア1世 (レオン王) (914年没)
- スピチフニェフ1世 (ボヘミア公) (914年(推定))
- スムバト1世 (914年)
- アフマド・サーマーニー (914年)
- Sugandha (914年)
同じ地域に関係する人物
- シクストゥス3世 (ローマ教皇) (440年没)
- パオロ・ジョッベ (1972年没)
- Pietro Sforza Pallavicino (1667年没)
- クィントゥス・フフィウス・カレヌス (紀元前40年没)
- ルキウス・ユニウス・プッルス (紀元前240年代没)