HISTORICAL PERSON · 紀元前240年代没

ルキウス・ユニウス・プッルス

共和政ローマ中期の政治家・軍人。前249年に執政官となり、同僚プルケルの敗北後、艦隊を嵐とカルタゴの攻撃で失った。エリクスは一時占領したが、鳥占いを無視した結果と言われ、自ら命を絶った。

生涯
紀元前240年代没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス・ユニウス・プッルスは、共和政ローマ中期の政治家・軍人である。第一次ポエニ戦争を戦い、紀元前249年の執政官に選ばれた。没年は紀元前249年とも紀元前248年ともいわれる。完全な名はガイウスの子、ルキウスの孫のルキウス・ユニウス・プッルスと記録されている。同僚の執政官はプブリウス・クラウディウス・プルケルであった。

この年、二人の執政官はシチリアでカルタゴ軍と戦い、いずれも不運な結果に終わった。プルケルは島の西へ向かい、ローマ軍が包囲していたリリバエウムから、ドレパナのカルタゴ艦隊を奇襲しようとして完敗した。プルケルは鳥占いをないがしろにしたとされ、ローマに呼び戻されて罰金刑を科された。一方、プッルスは島の東へ向かい、大規模な輸送船団と若干の軍艦を率いて、まずメッセネ、続いてシュラクサイへ進んだ。シュラクサイでさらに船を集め、軍艦120隻と輸送船およそ800隻を擁するまでになった。

プッルスは船団を二つに分けた。輸送船の半分を複数の軍艦の護衛と財務官たちの指揮に託し、シチリア南端のパキュヌス岬を回ってリリバエウムへ向かわせた。自分はシュラクサイにとどまり、島の内陸から穀物が届くのを待った。財務官たちの船団はカルタゴの提督カルタロに行く手を阻まれて目的地に着けなかったが、損害の少ないまま、フィンティアスの港に避難した。敵はさらに東に陣取って、財務官たちと執政官の連絡を断とうとした。

こうした事情を知らないまま、プッルスも出航し、同じ道でパキュヌス岬を回った。そこで敵の海軍と向かい合うことになった。同僚の運命に学んだのか、戦いを挑む気にはなれず、かといって逃げきれる見込みもなかったため、港はないが岩礁の多いカマリナ近くの海岸に退いたと考えられている。ところが激しい南の嵐が襲った。危険を早く察したカルタゴ軍は、ぎりぎりのところで岬の陰に入ったが、不利な停泊地にいたローマ側は、財務官たちの船団もプッルス自身の船団も、嵐によって壊滅した。カルタゴ軍の嫌がらせの攻撃も重なったとされる。

艦隊を失ったのち、プッルスは救った兵とともに陸でひとつの成功をおさめた。エリクスを占領し、山頂の神殿も麓の町も押さえて、シチリア西端に足場を築いたのである。ただし、下の町はまもなくカルタロに奪い返された。このとき、プッルス自身が敵の捕虜になったと伝えるものもある。リリバエウムを包囲していたガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスとルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスは、海軍の敗北によって包囲を解いて撤退せざるをえなかった。ローマの伝承は、プルケルと同じくプッルスの災難も、鳥占いを軽んじた結果だとしている。プルケルが有罪となったのに対し、プッルスは自ら命を絶ったと伝えられる。しかし、プッルスは艦隊の乗員を救ったと伝えられ、のちに陸で戦果もあげているため、自殺の話は疑わしいとされる。確かなのは、執政官の任期ののち、その名が記録に現れなくなることだけで、のちには彼の運命について信頼できることはもう知られていなかったらしい。捕虜になったという説の信憑性も、自殺説と同様に疑問視されている。鳥占いにまつわる、神聖な鶏を海に投げ込んだ有名な逸話は、もとはプッルスに結びついていたという推測もあるが、プルケルが有罪となった事実と合わず、逸話はプルケルのほうに固く結びついている。

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