HISTORICAL PERSON · 1879年没

ジェームズ・クラーク・マクスウェル

スコットランドの理論物理学者。1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立し、電磁波の存在を予想した。土星の環や気体分子運動論でも知られ、キャヴェンディッシュ研究所の初代所長を務めた。

生涯
1879年没
死亡地
イギリス連邦(ケンブリッジシャー / ケンブリッジ)
出生地
イギリス連邦(エディンバラ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンブリッジシャー)

伝記

ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、1831年6月13日にスコットランドのエディンバラで、弁護士ジョン・クラークとフランシス・ケイの間に生まれた理論物理学者である。父は広大な土地を相続しており、幼少期は南西部のミドルビーで過ごした。近くに学校がなかったため母が教師を務めたが、8歳のときに母ががんで亡くなり、以後は相性の悪い家庭教師のもとで2年間学んだ。1841年に10歳でエディンバラ中等学校に入り、初めは訛りをからかわれたが、やがて早熟な才能を示した。14歳で詩が新聞に載り、その半年後には複数の焦点を用いた卵形線の定義とピンと糸による描法を考案して論文にまとめ、エディンバラ王立協会で発表されている。

1847年に16歳でエディンバラ大学に入り、偏光による弾性ひずみの観察などを行った。1850年にケンブリッジ大学ピーターハウスに入学したが、翌学期にトリニティ・カレッジに移った。1854年に数学の学位を2位で取得して卒業したが、1位のラウスに負けた悔しさから数学のスミス賞を狙い、ラウスと同時受賞となった。卒業後もフェローとして残り、1855年にファラデーの磁気力線に関する論文を発表したことがきっかけで、ファラデーとの交流が生まれた。1856年に故郷に近いアバディーンのマーシャル・カレッジの教授に就任し、同年に父を亡くした。ケンブリッジのアダムズ賞の課題「土星の環の構造と安定性」に取り組んで1857年に受賞し、環が安定して存在するには無数の粒子からなるはずだと結論づけた。1858年には学長の娘キャサリン・マリー・デュワーと結婚した。1859年の気体の動力学的理論の論文では、粒子の速度分布がマクスウェル分布に従うことを示した。

1860年にマーシャル・カレッジが近郊のキングス・カレッジと統合されて職を失うと、ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンの応用科学教授となった。1861年には、光の三原色のフィルターをつけて撮影した3枚の写真を重ね、史上初めてカラー写真の撮影に成功し、王立研究所で発表した。同じ年に提案した、エーテルの渦流と歯車のような力学モデルは現実的ではなかったが、そこから正確なアンペールの法則が初めて導かれた。さらにエーテルを弾性体として電気・磁気の力で伝わる波の速度を求めると光速度にほぼ一致し、光は電磁気と一体の現象としてとらえられることがわかった。この年に王立協会フェローに選ばれている。これらを整理して渦流を使わずに説明する電磁場のモデルとしてマクスウェルの方程式を導き、1864年に王立協会で発表した。

1865年4月に論文執筆に専念するためキングス・カレッジを退職し、故郷のミドルビーで研究を続けた。1871年には熱力学第二法則に疑問を投げかけ、「マクスウェルの悪魔」の思考実験を示した。同年、ケンブリッジ大学の懇請を受けて実験物理学の初代教授となり、第7代デヴォンシャー公の基金によるキャヴェンディッシュ研究所の設立に貢献し、1874年の開所と同時に初代所長を務めた。ヘンリー・キャヴェンディッシュの遺稿の実験を再現して、1879年に論文集を発行した。この年の夏に腹部の癌が悪化し、ケンブリッジで治療を受けたが、11月5日に亡くなった。アインシュタインは1920年代にケンブリッジを訪れ、自分の業績はニュートンよりもマクスウェルに支えられた所が大きいと述べた。

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