HISTORICAL PERSON · 1879年没

オノレ・ドーミエ

フランスの画家。風刺版画家として知られ、油彩画でもロートレックやゴッホなど後世の画家に影響を与えた。石版画の技法を学んだ。

生涯
1879年没
死亡地
フランス共和国(ヴァル=ドワーズ県 / ヴァルモンドワ)
出生地
フランス共和国(マルセイユ)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴァル=ドワーズ県)

伝記

オノレ=ヴィクトラン・ドーミエは、1808年2月26日、南フランスのマルセイユにガラス職人の子として生まれた画家・版画家である。父ジャン=バティストは詩人や劇作家を志す文学好きの人物で、その志のため1814年(1815年とも)に家族を置いてパリに赴いた。妻と子どもたちが父を追ってパリに出たのは、ドーミエが8歳の1816年である。父は詩集を出し、素人劇団に戯曲を上演させたが、経済的な成功はほとんどなく、一家は貧しかった。父が行き詰まったため、ドーミエは12歳ごろから働き始め、廷吏の使い走りを経て、パレ・ロワイヤルにある書店の店員となった。この書店は芸術家が出入りする場所で、そこで絵に関心をもち、描き始めた。暇があればルーヴルに通ったという。

1822年ごろ、父の友人で記念物博物館の創設者アレクサンドル・ルノワール(印象派のルノワールとは無関係)の庇護を受けて、美術の基本を学んだ。翌年には私塾アカデミー・シュイスに通い、モデルを見て描いた。同じ1823年ごろ、ベリアールという職人から、発明されて間もない石版画(リトグラフ)の技法を学んだ。19世紀前半のフランスはジャーナリズムの勃興期にあり、識字率が高くなかった当時は、挿絵入りの新聞の需要が大きかった。風刺新聞『ラ・カリカチュール』や『ル・シャリヴァリ』を創刊したシャルル・フィリポンが版画家としての才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用した。7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下で、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した。1832年には、国王を極めて攻撃的に描いた『ガルガンチュア』の発表後、数か月投獄されている。版画『トランスノナン街、1834年4月15日』もこのころの作品としてよく知られる。1835年に出版の自由を制限する九月法が成立すると、風刺の矛先は和らぎ、ブルジョワやパリの日常生活が題材に増え、政治的な主題も遠回しなものになった。

1846年にアレクサンドリーヌ・ダッシーと結婚してサン=ルイ島に移り、1863年まで暮らした。そこでボードレールやコロー、クールベ、ドラクロワら作家や画家と交わり、本格的に油彩を描き始めた。1853年からは夏をバルビゾンやヴァルモンドワで過ごした。絵への意欲が高まるにつれて、風刺画への熱意も人気も衰え、1860年に『ル・シャリヴァリ』は彼の作品の掲載をやめた。経済的に苦しくなり、1863年から1865年にはモンマルトル周辺を転々として多くの友人と疎遠になったが、1864年に同紙が新たな契約を結ぶと、再び風刺画を描いた。1865年にはヴァルモンドワへ移った。

ドーミエは生涯に4,000点近い版画のほか、数十点の彫刻と三百数十点の油絵を残した。油絵は生前ほとんど公開されなかったが、パリ市民の日常や鉄道車両内の情景を大胆な構図と筆づかいで表し、印象派や表現主義を先取りしたと今日では評価される。ドン・キホーテを主題にした作品も多く描いた。1872年ごろから眼を病み、やがて失明に至った。1877年に第三共和政から年金を与えられ、翌年にはパリで油彩の大規模な展覧会が開かれて、最晩年に大きな評価を受けた。1879年2月、ヴァルモンドワで没した。ロートレックやゴッホなど後世の画家にも影響を与えた。

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