伝記
ヨハネス9世は、898年1月から900年1月までのローマ教皇で、第116代にあたる。教会慣用名はヨハネである。生年は不明だが、840年ごろ、イタリアのティヴォリの生まれとされる。父はランポアルドという人物で、ベネディクト会の修道士となり、教皇フォルモススから司祭に叙階された。教皇になる前の経歴についてはほとんど分かっていない。ベネディクト会の修道院の院長だったともいわれる。
彼が教皇に就いた背景には、前任者フォルモススの死後にローマを揺るがした混乱があった。フォルモススは死後、教皇ステファヌス6世のもとでその遺体が掘り起こされて裁かれ、教皇の記章をはぎ取られるという「死体裁判」にかけられた。その後、教皇テオドルス2世が彼のためにキリスト教式の埋葬を認めていた。テオドルス2世が急死すると、ローマではいくつもの党派が争い、フォルモススの敵はのちに教皇セルギウス3世となるセルギウスを立てようとした。ヨハネスの選出は、テオドルス2世の急死を受けて行われたことになる。ヨハネス9世は898年の初めに、有力者スポレート公の支持を受けて選ばれたとされる。そのスポレート公は、ランベルトだったともいわれる。セルギウスは市から追放され、破門された。知性と穏健さで知られた人物だったと伝えられる。
暴力的な党派争いを鎮めるため、898年にローマなどで教会会議を何度も開いた。ラヴェンナの会議では、ローマの党派による暴力に終止符を打つべきことを定め、フォルモススにキリスト教式の埋葬を認めたテオドルス2世の判断を確認し、ステファヌス6世が開いた死体裁判の記録を焼却するよう定めた。再叙階は禁じられ、ステファヌスに位を奪われた聖職者は元の地位に戻された。司教や教皇の死後に、その館を略奪する慣習を、教会と世俗の両方の権力で止めさせることも命じた。また、すでに司教の座にある者が他の司教座に移ることを禁じる方針も維持した。
ゲルマン人の圧力で独立を脅かされていたモラヴィアのスラヴ人は、独自の聖職者組織を持てるようヨハネスに訴えた。教皇はドイツ側の聖職者からの苦情を退け、大司教1人と司教3人の叙階を認めた。帝国と教皇庁の結びつきを固めるため、ローマの教会会議では東フランク王アルヌルフよりもスポレート公ランベルトを支持し、以後の教皇の叙階は皇帝の使節の立ち会いのもとでのみ行うことも決めさせた。だがランベルトの急死により、この同盟への期待は崩れた。これに加えて、教皇がアルヌルフの帝冠を無効とし、代わりにランベルトに戴冠したともいわれる。さらに、モンテ・カッシーノ修道院の特権を確認した。
こうした施策により、ヨハネス9世は先任者フォルモススの名誉を回復し、スラヴ人の地に対する教皇の権威を確かなものにした人物とされる。叙階に皇帝の使節が立ち会うという取り決めについて、教皇の選出時ではなく叙階の際に適用される点で従来の慣行と異なると説明される。
900年1月に没し、後任はベネディクトゥス4世(在位900年から903年)となった。没日は1月5日とされる。埋葬地は、コンスタンティヌスの大聖堂のすぐ外側とも、サン・ピエトロ大聖堂の前庭ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- Prosigoj of Serbia (900年没)
- ピピン (ヴェルマンドワ伯) (900年(推定))
- Fulk of Reims (900年没)
- ツヴェンティボルト (900年没)
- ローンヴァルド・エイステインソン (900年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベルト・ベラルミーノ (1621年没)
- アロイシウス・リリウス (1576年没)
- ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー (1651年没)
- ダマスス1世 (ローマ教皇) (384年没)
- ガイウス・マリウス (紀元前86年没)