伝記
ヘンリー・ウィルソンは、1812年2月16日にニューハンプシャー州ファーミントンで生まれ、1875年11月22日に没したアメリカ合衆国の政治家である。マサチューセッツ州選出の上院議員を務め、第18代副大統領となった。奴隷制に強く反対した共和党の有力者で、南北戦争の前後に活躍した。生まれたときの名はジェレマイア・ジョーンズ・コルバスといった。父ウィンスロップは、1812年戦争に民兵として従軍した経験をもつ日雇い労働者で、ときに製材所も営んだ。名は、子どもがいない裕福な隣人にあやかったもので、遺産がもらえるかもしれないという父の虚しい期待があったと伝えられる。
一家は貧しく、短い初等教育を受けたのち、10歳で近隣の農家に年季奉公に出されて、以後10年間、労働者として働いた。その間に2人の隣人から本を貸されて、イギリス史やアメリカ史、偉人伝を幅広く読んで乏しい教育を補った。奉公が明けたときには6頭の羊と1組の牛をもらい、すぐに85ドルで売ったが、これが奉公の間に初めて手にした自分の金だったという。生まれた名を好まず、21歳でニューハンプシャー議会に請願して改名し、ヘンリー・ウィルソンと名乗った。1833年には、仕事を求めて100マイル以上を歩き、マサチューセッツ州ネイティックに着いた。靴職人のもとで数週間で技術を身につけ、15ドルで契約を買い取って自分の店を開き、法律を学ぶ資金を貯めようとした。靴職人としては成功し、短期間で数百ドルを貯めたという。
1841年から1852年まで州議会議員を務め、1848年から1851年は『ボストン・リパブリカン』紙の所有者・編集者であった。もとはホイッグ党員だったが、1848年に自由土地党の創設に加わり、1852年の大統領選挙の前後には党首を務めた。奴隷制に反対する勢力をまとめることに力を注ぎ、1850年代半ばに自由土地党が解散すると、結成に携わった共和党に加わった。1852年の下院議員選挙と1853年の州知事選挙には落選したが、1855年に上院の補欠選挙で当選し、1859年、1865年、1871年に再選されて、1855年1月31日から1873年3月3日まで務めた。南北戦争中は急進共和党員とみなされ、民兵の将軍としての経験や、北軍の連隊の組織・指揮、上院の軍事委員会の委員長としての立場から、リンカーン政権による陸海軍の組織と監督を助けた。ワシントンD.C.での奴隷制を禁じる法案や、1862年に黒人を北軍の戦いに組み入れる法案を成立させたとされる。戦後も急進共和党の再建政策を支持した。
1872年、再選を目ざすユリシーズ・グラント大統領の副大統領候補に選ばれて当選し、1873年3月4日に副大統領に就任した。しかし同年5月に脳卒中で倒れて体調が悪化し、職務の効果は限られ、1875年11月22日、連邦議会議事堂で働いているときに再び脳卒中の発作で倒れて死去した。高潔な人柄と信念に基づく政治で知られていたが、上院議員の晩年にはクレディ・モビリエ事件への関与で名声がやや傷ついた。ネイティックのオールド・デル・パーク墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- エリファス・レヴィ (1875年没)
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同じ地域に関係する人物
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