伝記
ジョン・キャベル・ブレッキンリッジは、1821年1月16日にケンタッキー州レキシントン近郊で生まれ、1875年5月17日に没したアメリカ合衆国の弁護士・政治家である。ケンタッキー州選出の上院議員、第14代副大統領を務め、副大統領としては就任当時36歳の史上最年少であった。ブレッキンリッジ家はケンタッキー州で由緒ある家柄で、祖父は上院議員と司法長官を務めた同名のジョン・ブレッキンリッジである。1839年にセンター・カレッジを卒業し、ニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)に入学したのち、トランシルヴァニア大学で法律を学んだ。1840年に法曹界に入り、いったんアイオワ州バーリントンへ移ったがすぐにレキシントンに戻って弁護士を始め、1843年にメアリー・サイリーン・バーチと結婚した。1847年から1848年の米墨戦争には、第3ケンタッキー義勇兵部隊の少佐として従軍した。
民主党員として1849年にケンタッキー州選出の下院議員となり、続く2期、1851年から1855年まで務めた。再選には出馬せず、ピアース大統領からスペイン担当大臣に任命されたが断った。民主党のジェームズ・ブキャナンの副大統領候補となり、憲法で定められた最年少の35歳で選出された。1860年の大統領選挙では、民主党が分裂するなかで、南部の側から大統領候補に指名された。奴隷制擁護の立場で戦い、勝利をまったく期待せず、「はかない希望を導くための勇気があると思います」と手紙で嘆いている。一般投票では18.1%で3位だったが、選挙人団投票ではディープサウスと、メリーランド、ケンタッキーなどの境界州で勝利して2位となり、リンカーンに敗れた。
選挙後、ケンタッキー州議会から連邦上院議員に選ばれて1861年3月4日に就任したが、南部州の脱退と連合国の創設後も上院にとどまり、同年12月4日に追放された。逮捕を恐れて連合国へ逃れ、南北戦争中は准将として入り、第一ケンタッキー旅団を指揮して、間もなく少将に昇進した。同旅団は州政府に見捨てられたと感じていたため「孤児旅団」と呼ばれた。シャイローで負傷し、ミシシッピ川下流域で独立した指揮官を務めて、ポートハドソンを確保した。テネシー軍のブラクストン・ブラッグ将軍とは険悪で、ブラッグは彼が大酒飲みだとして密かに処罰しようともした。ストーンズリバーの戦いで、1863年1月2日に自殺行為だと反発しながら命令どおり攻撃し、多数の死傷者を出して、ケンタッキー出身部隊はほぼ3分の1を失った。「私の哀れな孤児よ」と繰り返し叫んだと伝わる。その後チカマウガの戦いなどで奮戦し、1864年5月14日にはニューマーケットの戦いで士官候補生を含む部隊を指揮した。
1865年1月に陸軍長官に就任し、4月のリッチモンド陥落の混乱のなかで、政府と軍が破壊されずに合衆国軍に占領されるよう尽力した。連合国が崩壊するとデイヴィス大統領とともに脱出し、さらなる抵抗は死者を増やすだけだと説得し続けたが、逃亡の途中で別れた。反逆罪で裁判にかけられることを恐れて国外へ出て、キューバ、イギリス、カナダなどを経て、恩赦後の1869年3月にレキシントンへ戻って法律業務を再開した。政界復帰の提案は断り、クー・クラックス・クランに反対する考えを語った。のちに鉄道会社の副社長となり、肝硬変のためレキシントンで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・キャリントン (1875年没)
- ヤングトムモリス (1875年没)
- フリードリヒ・フォン・ベルヒトルト (1875年没)
- チャールズ・エリオット (海軍士官) (1875年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルゲランダー (1875年没)
同じ地域に関係する人物
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- Charles Woodruff (1927年没)
- ジョン・クリッテンデン (1863年没)
- アイザック・メイアー・ワイズ (1900年没)
- ジョン・Y・ブラウン・ジュニア (2022年没)