伝記
チャールズ・ライエルは、1797年11月14日、スコットランドのフォーファーシャーにあるキリミュア近郊の屋敷キノーディ・ハウスで、裕福な家の10人きょうだいの長男として生まれた地質学者であり、法律家でもある。のちに初代準男爵(サー)となった。父も同じチャールズという名で、ダンテの翻訳者・研究者として知られ、すぐれた植物学者でもあった。幼いライエルに自然の研究を最初に示したのは、この父だった。祖父もチャールズといい、モントローズで海軍への物資供給を行って一家の財をなし、屋敷を買った。一家の本拠地はハイランド境界断層に近いストラスモアにあり、周囲には良い農地が広がり、北西には断層を隔ててグランピアン山地がそびえる。もう一つの別邸はイングランド南部ハンプシャーのニューフォレストにあるバートリー・ロッジで、少年期の多くをそこで過ごし、自然界に大いに興味を抱くようになった。
1816年にオックスフォード大学エクセター・カレッジに入り、ウィリアム・バックランドの地質学講義に出席して、地質学と出会った。古典学で1819年12月に学士の学位を受け、1821年に修士号を得た。卒業後は法律の道に進み、1820年にリンカーン法曹院に入った。イングランドの農村を巡回しながら地質現象を観察し、1821年にはエディンバラでロバート・ジェイムソンの講義を聴き、サセックスのルイスにギデオン・マンテルを訪ねるなど、法律と地質学の二足のわらじを履いた。1823年には地質学会の共同書記に選ばれた。視力が衰え始めたため、地質学を専業にしようとし、最初の論文「フォーファーシャーの淡水石灰岩の新しい形成について」を発表した。1827年ごろには法律の仕事に見切りをつけ、地質学者としての長い道へ踏み出した。1826年には王立協会のフェローに選ばれ、1830年にはロンドンのキングズ・カレッジで地質学の教授の職に就いた。1832年には、地質学会に関わるレナード・ホーナーの娘メアリー・ホーナーとボンで結婚し、新婚旅行でスイスとイタリアを地質調査して回った。
1830年から1833年にかけて、3巻約1200ページの大著『地質学原理』の初版を出した。これは彼の最初の著書であり、最もよく知られた著作でもあり、理論家としての地位を確立した。地質学は迷信を排して自然の中で起きた変化を研究する科学だと宣言し、地球は今も働いている自然の過程と同じ作用で形づくられたという考えを、広い読者に知らしめた。これは数十年前にジェームズ・ハットンが提唱した考えを世に広めるものでもあり、ウィリアム・ヒューウェルはその漸進的な見方を「斉一説」と名づけた。
1840年代にはアメリカ合衆国とカナダを旅し、『北アメリカ紀行』(1845年)と『合衆国再訪』(1849年)の二つの旅行記を書いた。チャールズ・ダーウィンの親友で、進化の過程をめぐる彼の考えにも大きな影響を与えた。1858年にダーウィンとウォレスの自然淘汰に関する論文を同時に発表する手配を助けたが、自身は宗教上の個人的な迷いを抱いていたとされる。1871年のシカゴ大火後には、公共図書館の設立のために、真っ先に本を寄贈した一人となった。妻は1873年に没し、ライエルは『地質学原理』の第12版を改訂中の1875年2月22日に亡くなり、ウェストミンスター寺院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドラ・フォン・バイエルン (1875年没)
- ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー (1875年没)
- チャールズ・エリオット (海軍士官) (1875年没)
- ハインリヒ・ダレスト (1875年没)
- チャールズ・フィニー (1875年没)
同じ地域に関係する人物
- パトリック・マンソン (1922年没)
- ジョージ・イヴリン・ハッチンソン (1991年没)
- エドマンド・デュラック (1953年没)
- ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯) (1792年没)
- ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯) (1695年没)