伝記
クセノポンは、紀元前427年頃に生まれ、紀元前355年頃に没したとされる(生没年には疑問符が付く)古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家である。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子であり友人でもあった。クセノフォンとも表記される。父の名はグリュロスといい、同名の息子もいる。その息子は紀元前362年のマンティネイアの戦いで、テーバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったと伝えられる。
彼の出身は、アテナイのエルキア区とされ、父は貴族の家柄であった。ペロポネソス戦争の最中に少年期と青年期を過ごし、裕福な若者の慣例どおりソクラテスに親しんだ。おそらくアテナイの騎兵として務めたとみられ、三十人政権の時代にも国内にとどまり、紀元前404年から403年の内戦では民主派の蜂起勢力と戦ったようである。ソクラテスとの出会いには逸話があり、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、青年クセノポンの行く手を杖でふさいだソクラテスが、さまざまな食料品をどこで手に入れるかを次々に尋ね、答えたところで、立派な人になるにはどこへ行けばよいかと問うた。答えに詰まったクセノポンに、ソクラテスは「では、私のところに来て学びなさい」と告げ、以後、弟子になったという。
紀元前401年、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスが、兄王を倒すためにギリシア人傭兵を雇うと、彼はこれに加わった。ボイオティアの隊長プロクセノスの誘いによるものである。参加について相談を受けたソクラテスは神託に伺いを立てるよう勧めたが、クセノポンは「どの神に供え物をすれば旅を成功させられるか」と問い、これを聞いた師にたしなめられたと伝わる。師の死(紀元前399年)に立ち会えなかったのも、この遠征のためである。遠征はクナクサの戦いでキュロスが戦死して失敗に終わり、傭兵部隊は敵地の真ん中に取り残された。彼はこの部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威をしのいで敵中を脱したという。30歳で、退却するギリシア人傭兵一万人の指揮官の一人に選ばれたとされる。この記録が『アナバシス』である。
帰還後は、小アジアに侵攻したスパルタに雇われ、スパルタ軍の一員として活躍したようである。著作『アゲシラオス』からは、王アゲシラオス2世に心酔していたことがうかがえる。やがてコリントス戦争が起こり、コロネイアの戦いでは祖国アテナイ軍と戦う立場になった。このため祖国に弓を引いたとしてアテナイを追放されたが、その後もスパルタ側で戦い続けた。戦争が終わると、その功績によりスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園を与えられ、狩猟と著述に励みながら穏やかに暮らしたという。のちにテーバイがスパルタを破ってスキルスを占領したため、彼はそこを追われた。皮肉にも、テーバイの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだため追放は解かれたが、アテナイに帰国したかは定かでなく、コリントスに移り住んでそこで生涯を閉じた。没年ははっきりしない。
著作は多岐にわたる。『ソクラテスの思い出』『ソクラテスの弁明』『饗宴』『家政論』は師の言行を伝え、『ギリシア史』はトゥキュディデスの『戦史』を受けて紀元前362年のマンティネイアの戦いまでを描き、『キュロスの教育』は大キュロスの生涯を扱う。『ラケダイモン人の国制』は同時代の記録が乏しいスパルタの貴重な実録とされる。平易なアッティカ方言で書かれたため、ギリシア語の模範テキストとして用いられ、著作の大半が現代まで伝わっている。
同じ年に亡くなった人物
- エルピニケ (紀元前 350年(推定))
- ルキウス・パピリウス・クルソル (紀元前326年の執政官) (紀元前 350年(推定))
- アリスティッポス (紀元前350年代没)
- バーダラーヤナ (紀元前350)
- アルテミシア2世 (紀元前350年没)
同じ地域に関係する人物
- マテオス・カンダクジノス (1383年没)
- コスタス・カリオタキス (1928年没)
- Abantidas (紀元前250)
- ファロスのデメトリウス (紀元前213)
- プレイストアナクス (紀元前409年没)