伝記
プレイストアナクスは、アギス朝のスパルタ王である。在位は紀元前458年から445年と紀元前428年から409年とも、紀元前459年から445年と紀元前427年から409年ともされ、始まりと再即位の年は伝えによって異なる。アテナイとの覇権争いが激しかった時代にあって、スパルタの和平派の指導者だった。
父は、プラタイアの戦いでペルシア軍を破った王族の将軍パウサニアスである。このパウサニアスは、従兄弟の王プレイスタルコスの摂政を務めたが、ペルシアに通じたとの疑いで監督官たちに殺されたとされ、殺害は紀元前467年か466年かといわれる。プレイストアナクスは紀元前470年代の後半に生まれ、クレオメネスとアリストクレスという2人の弟がいた。プレイスタルコスが子のないまま紀元前459年に死ぬと、幼いまま王位を継ぎ、父の弟である叔父ニコメデスが摂政となった。ニコメデスは紀元前457年、ドリスを助ける名目でスパルタ人1,500人と同盟軍1万人の大軍を率い、タナグラに達してアテナイ軍と戦った。この戦いはスパルタにとって損失の大きい勝利だった。
初めての遠征は紀元前446年の夏で、アテナイとの5年間の休戦が切れるころだった。まだ20代の若さだったため、助言者がつけられ、名が知られるのはクレアンドリダスだけである。メガラとエウボイア島がアテナイに背くと、ペリクレスは島へ軍を向けたが、プレイストアナクスが地峡とメガラを通ってアッティカに侵入し、エレウシスの周辺を荒らしていると聞いて急いで本土に戻った。戦いは避けられないかに見えたが、王とペリクレスは話し合って取り決めを結んだ。アテナイは自国領以外の本土への主張を捨て、メガラ、トロイゼン、アカイアから守備隊を引き揚げ、スパルタ軍は帰国した。
ところが帰国すると、プレイストアナクスとクレアンドリダスは、優位にありながらアテナイを見逃したとして買収の疑いをかけられた。プルタルコスによれば、ペリクレスは10タラントンを会計に記載していたという。撤退の理由は買収だけとは限らず、戦わずに済む十分な譲歩だと考えた、あるいは同年9月2日の日食を凶兆と見た、などの説明も挙げられる。王は監督官の多数と、おそらくもう一方の王アルキダモス2世の反対に遭った。罰金は15タラントンとする見方が有力だが、王は払わずに亡命したとされ、払えないために追放されたともいう。死刑を宣告されたクレアンドリダスは、南イタリアのトゥリオイへ逃れて市民権を得た。王が結んだ取り決めの条件は、皮肉にも、まもなく締結された三十年和約にそのまま取り入れられた。
プレイストアナクスは、父のように神殿で餓死させられるのを避けるため、アルカディアのパラシオスにあるリュカイオン山へ移り、ゼウスの聖域に家を建てて約18年を過ごした。紀元前428年か427年、アルキダモス2世の死をきっかけに、巫女を買収したとの疑いを持たれつつ、デルポイの神託の助言に従って呼び戻され、再び王位に就いて19年間君臨した。再び和平に努め、紀元前421年のニキアスの和約の成立に尽力した。政敵はなお過去の失敗を責めたが、彼は和約の功績を挙げて抗弁した。同じ紀元前421年には、親スパルタ派の求めでパラシオスに軍を進め、宗主国のマンティネイアを破って同地を切り離し、帰国した。紀元前409年に死去し、息子のパウサニアスが王位を継いだ。