伝記
ユストゥス・フォン・リービッヒは、1803年5月12日にダルムシュタットで生まれたドイツの化学者で、有機化学の確立に大きく貢献した19世紀最大の化学者の一人である。ダルムシュタットは、1806年に成立したばかりのヘッセン大公国の首都であった。8歳でギムナジウムに入ったが、勉強よりも父の仕事や実験を手伝うことを好んだ。宮廷図書館には大人向けの化学書がそろっており、彼は学校よりも図書館を好み、成績はよくなかった。雷酸水銀をギムナジウムに持ち込んで爆発を起こし、1817年に退学させられた。ヘッペンハイムの薬剤師のもとに徒弟として住み込んだが、屋根裏部屋で雷酸塩の実験を続け、また爆発事故を起こして追い出され、実家へ戻った。
1820年にヘッセン政府の奨学金を受け、新設のボン大学に入学し、のちにカストナーとともにエアランゲン大学へ移った。雷酸塩の研究を続け、無機化合物の分析法を学びたいと考えていたが、カストナーがこの分野に明るくなかったため失望し、やがて学生運動に身を投じた。町の住民と衝突して暴力を振るい、逮捕されたこともある。1822年に大公ルートヴィヒ1世から留学の奨学金を認められ、パリ大学のソルボンヌ校に加わった。アレクサンダー・フォン・フンボルトの紹介でゲイ=リュサックの研究室に入り、1824年に雷酸塩の研究結果を発表して、フンボルトの推薦状を持って帰国した。ルートヴィヒ1世は大学に諮ることなく、21歳の彼をギーセン大学の助教授に任命し、翌1825年には教授へ昇進した。
ソルボンヌでの経験から、彼は世界で最初期となる学生実験室を大学内に設けた。学生は定性分析と定量分析、化学理論を系統立てて学び、最後に自ら研究論文を書くことが求められた。ホフマン、ケクレ、ヴュルツ、ジェラール、ウィリアムソンらが集まり、ギーセンは化学教育のメッカとなった。この教育手法は各国に広がり、ドイツが有機化学の中心地となる礎となった。
彼が研究した雷酸塩と、ヴェーラーが研究したシアン酸塩は、性質が全く異なるのに分析結果が同じであり、これが異性体の概念に到達するきっかけとなった。以後ヴェーラーとはたびたび共同研究を行い、生涯文通を続けた。1832年にはヴェーラーと苦扁桃油を研究し、反応で変化しない基を見いだして、これを基(ラジカル)と呼んだ。同年には『薬学年報』を創刊して自ら編集した。この雑誌は、のちにヨーロッパ有機化学ジャーナルとして続いている。1831年に発表した冷却器は、リービッヒ冷却器の名で今も広く使われている。同年にクロロホルムを発見した。一方で、臭素の発見は、一滴の赤褐色の液体を塩化ヨウ素と早合点して調べなかったため、フランスのバラールに発見を先んじられた。
1837年からは生化学へと研究を移し、1840年に『有機化学の農業および生理学への応用』を発表した。1841年には、植物が土中のカリウムやリンを必要とすることを明らかにし、最も少ない必須元素の量が生長速度を決めるというリービッヒの最小律を提唱し、化学肥料を開発した。農芸化学の父と称される。1845年に男爵に列せられた。1852年にバイエルン王マクシミリアン2世の招きでミュンヘン大学へ移り、過労による不眠症のため、実験をやめて講義や文筆を中心とする生活に切り替えた。1865年には肉エキスを抽出する会社を設立した。ベルセリウスやパスツールとは激しい論争を繰り広げ、そのため味方も敵も多かった。1873年にミュンヘンで没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィクトル・ハルトマン (1873年没)
- ハイラム・パワーズ (1873年没)
- フョードル・チュッチェフ (1873年没)
- ナポレオン3世 (1873年没)
- ヘルマン・ハンケル (1873年没)
同じ地域に関係する人物
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- カール・ツー・ライニンゲン (1804-1856) (1856年没)
- アレクサンダー・シャルク=ゴロトコフスキ (2015年没)
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