伝記
ナポレオン3世は、1808年4月20日にパリで生まれた、フランス第二共和政の大統領(在任1848年から1852年)、のち第二帝政の皇帝(在位1852年から1870年)である。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトで、即位前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれた。ホラント王ルイ・ボナパルトと妃オルタンスの三男で、皇帝ナポレオン1世の甥にあたる。母が愛人との間に儲けた子だとする噂もあったが、父をルイとする説が有力とされる。父は兄ナポレオンの傀儡になることを拒み、1810年に退位させられた。母は熱狂的なナポレオン崇拝者で、ルイ・ナポレオンはその影響を強く受けて育った。
1815年のナポレオン失脚で一家は国を追われ、母に引き取られてスイスやバイエルンで育った。1830年にローマへ移ってイタリア統一運動に加わったが、ボローニャ一揆の失敗でスイスへ戻った。その後は文筆活動に励み、サン=シモン主義に近づいた。ボナパルト家の復活をめざし、1836年にはストラスブール一揆を起こして失敗し、アメリカへ追放された。1840年にブローニュで再び一揆を起こして逮捕され、今度は終身刑となった。5年半に及ぶアム要塞での獄中生活は政治研究に費やし、1844年の著作『貧困の根絶』で労働者階級の保護を主張して、貧困層に新たなボナパルティズムを訴えた。1846年に父の危篤に際して脱獄し、ベルギーを経てロンドンへ逃れた。
1848年2月の革命で7月王政が倒れると帰国し、補欠選挙で当選した。12月の大統領選挙には「ナポレオン」の名の知名度と豊富な資金、両王党派の消極的な支持を得て、74%の得票で当選した。しかし大統領の権力は弱く、議会の制約を受けた。そこで、まず秩序党と連携し、ローマ共和国に追われた教皇の帰還を支援してローマに侵攻した。国民議会から主導権を奪うべく、1851年12月2日にクーデターを決行し、反対勢力を一掃した。翌1852年1月に全権を認める1852年憲法を制定し、同年12月の国民投票を経て「ナポレオン3世」として即位した。治世の前期は強圧的な「権威帝政」だったが、1860年代には議会を尊重する「自由帝政」へと徐々に移った。
内政ではサン=シモン主義を背景に、近代的な金融業の確立や自由貿易の推進に努め、オスマンにパリ改造計画を行わせ、鉄道網の整備も進めた。外交では、クリミア戦争でイギリスと同盟してロシアに勝ち、フランスの地位を高めた。アフリカやアジアでは植民地を広げ、治世中に領土を3倍にしたとされる。しかしメキシコ出兵の失敗で地位が揺らぎ、ビスマルクの策動で1870年に普仏戦争へ突入し、セダンの戦いで自らプロイセン軍の捕虜となった。パリで第二帝政は倒され、フランスは第三共和政に移った。釈放後はイギリスに亡命し、復位を諦めずクーデターを計画していたが、1873年1月9日に同地で死去した。皇后はスペイン貴族の娘ウジェニーで、皇太子ルイが唯一の子である。話下手で無口だったといわれ、「スフィンクス」と呼ばれ、容姿に恵まれなかったが馬上の姿は映え、「馬上のサン=シモン」とあだ名された。マルクスやユゴーが厳しく批判した一方、内政や植民地拡大を評価する再評価論もある。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・オルストン・コリンズ (1873年没)
- カール・ホプフ (1873年没)
- エミール・ガボリオ (1873年没)
- ルイ・アガシー (1873年没)
- エドワード・ブルワー=リットン (1873年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・キャムデン (1623年没)
- チャールズ・ダーウィン (1882年没)
- ウィリアム・バーンサイド (1927年没)
- ジェームズ・バズビー (1871年没)
- ウィルフレッド・バデリー (1929年没)