HISTORICAL PERSON · 1873年没

ルイ・アガシー

スイス出身でアメリカで活躍した生物学者・地質学者。氷河時代の発見者として知られ、『化石魚類』全5巻も著した。

生涯
1873年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ケンブリッジ)
出生地
スイス連邦(Motier)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ジャン・ルイ・ルドルフ・アガシーは、1807年5月28日にスイスのモティエで生まれ、のちアメリカ合衆国で活躍した生物学者・地質学者である。氷河時代の発見者として知られ、全5巻の『化石魚類』の著者でもある。海洋学者アレクサンダー・アガシーは息子にあたる。家庭で両親から初めの教育を受け、ビエンヌの中等学校で4年を過ごし、ローザンヌの学院で初等の学業を終えた。1824年から1826年にはチューリッヒ大学で医学を学び、1826年から翌年はハイデルベルクで古生物学と比較解剖学に触れ、1827年から1830年はミュンヘン大学で学んだ。1829年にエアランゲンで哲学博士、1830年にミュンヘンで医学博士の学位を得ている。

その後パリに移り、フンボルトとキュヴィエの指導のもとで地質学と動物学に取り組んだ。当時は魚類学に格別の注意を払っていなかったが、これがのちに主要な仕事となる。ブラジル遠征で採集された淡水魚の標本の研究を、亡くなったシュピックスの後任としてマルティウスに任され、1829年に成果を発表した。続いてヌーシャテル湖の魚類の歴史を調べ、1830年に『中央ヨーロッパ淡水魚誌』の簡略版を出し、決定版は1839年に刊行した。1832年にはヌーシャテルの学院の博物学教授に任じられた。同年、学者の交流を促そうとヌーシャテル自然科学協会も創設した。化石魚にも関心を移し、1833年から1843年にかけて『化石魚類』全5巻を刊行した。資料を集めるためヨーロッパの主要な博物館を訪ね、パリではキュヴィエの励ましと援助を受けた。化石からは軟組織がほとんど残らないため、鱗の性質にもとづいて魚類を4群に分類した。この分類はのちの研究に取って代わられた。資金面の不足は英国科学振興協会やエルズミア伯の援助で補われ、地質学の業績に対しウォラストン・メダルを受けた。

1837年、スイス自然科学界の年次総会で氷河時代について講演し、北半球全体が一つの巨大な氷河に覆われていたと発表した。会場は騒然となって反対意見が多く、論争は3日間続いたと伝えられ、この講演は後に「ヌーシャテルの講演」と記憶されるようになった。1846年に渡米し、翌年には合衆国沿岸測量局の調査船で観測する機会を得て、以後は海洋学の研究に没頭した。西インド諸島や南米沿岸の調査でドレッジによる底生生物の採集を重ね、大洋と大陸は太古から変わらぬ位置を占める恒久的な存在だという説を出した。水産学への貢献も大きかった。ハーバード大学の教授を務め、1863年にはアメリカ科学アカデミーの創設会員となって初代の渉外書記を務め、同年スミソニアン協会の理事にも任じられた。

「書物ではなく、自然を学べ」という言葉を残した。一方で、ダーウィンの進化論に対する有力な反対者で、『種の起源』が出るとすぐに科学的方法論を根拠に反論した。人種などの複数起源を唱える多元起源説を支持し、科学的人種差別を正当化したとして批判を受けた。妻のエリザベス・キャボット・キャリーは女子高等教育協会を共同設立し、後のラドクリフ・カレッジの前身となる教育の機会をつくった。アガシーは1873年12月14日に死去した。スタンフォード大学にあった彼の大理石像は、1906年のサンフランシスコ地震で台座から落ち、逆立ち状態で床にめり込んだ。月のアガシ岬は彼にちなんで名づけられている。

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