伝記
チャールズ・ロバート・ダーウィンは、1809年2月12日にイングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーで生まれ、1882年4月19日に没したイギリスの自然科学者である。すべての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、自然選択と呼ぶ過程を通して進化したと主張し、進化生物学の基礎を築いた。裕福な医師で投資家の父ロバート・ダーウィンの6人きょうだいの5番目で、父方の祖父は医師・博物学者のエラズマス・ダーウィン、母方の祖父は陶芸家・企業家のジョサイア・ウェッジウッドである。母スザンナは、ダーウィンが8歳のときに亡くなり、姉たちが母親代わりを務めた。8歳のころにはすでに植物、貝殻、鉱物を集めていた。1818年からシュルーズベリーの寄宿舎校で学んだ。
16歳の1825年、父の医業を助けるためエディンバラ大学で医学と地質学を学び始めた。しかし血を見るのが苦手で、麻酔のない時代の外科手術になじめず、退屈な講義も嫌って、学位を取らず1827年に大学を去った。このころ黒人の解放奴隷から剥製の作り方を学んだことは、のちに航海で標本を作る際に役立った。父は、牧師にさせようとして1827年にケンブリッジ大学クライスト・カレッジへ入れた。牧師なら博物学に時間を費やせると考え、ダーウィンは喜んで受け入れたが、ここでも博物学や昆虫採集にのめり込んだ。聖職者で博物学者のヘンズローと出会って親しい弟子となり、のちにこの出会いが自分の研究に最も強い影響を与えたと振り返っている。また、地層学者のセジウィックに学び、層序学に並外れた才能を発揮した。ハーシェルやフンボルトの本を読んで、熱帯で博物学を学ぼうと考えるようになった。1831年に中の上の成績で卒業したが、本人は回想録で、学問的にはどちらの大学でも得るものは何もなかったと述べている。
1831年末、ヘンズローの紹介で、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船した。艦長ロバート・フィッツロイの話し相手を兼ねた客人としての参加で、航海中は長年にわたってひどい船酔いに悩まされた。ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航し、カーボヴェルデ、南米東岸を経て、1832年12月1日にティエラ・デル・フエゴ島に着いた。ダーウィンは、フエゴ島民と宣教師となった元島民との違いに衝撃を受けた。海岸の測量の間には、内陸への長期調査をたびたび行った。ガラパゴス諸島のチャタム島には1835年9月15日に着いて10月20日まで滞在し、総督からゾウガメに島ごとの違いがあると教えられて、初めて変種の分布に気づいたという。ただし当時は、種の進化にまだ気づいておらず、その島で採った鳥の標本の産地も記録していなかった。標本中のフィンチ類が近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に鳥類学者のグールドである。1836年10月2日にファルマス港に帰り着いた。航海は当初3年の予定だったが、ほぼ5年に及んだ。
航海で印象に残ったこととして、自伝には、南米沿岸を移動すると生物が近縁の種に置き換わっていくこと、南米で絶滅した大型哺乳類の化石を見つけたこと、ガラパゴス諸島の生物が南米のものに似ていることの三点が挙げられている。1838年に自然選択説を思いついたが、より広範な研究が必要だと考えて公表を急がなかった。1858年、ウォレスから同じ考えを述べた小論を受け取り、二人の小論は共同発表された。1859年の『種の起源』は進化の理論を確立した。ダーウィンはウェストミンスター寺院に、ハーシェルとニュートンの隣に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- エスタニスラオ・フィゲラス (1882年没)
- ジョージ・ヘンリー・ケンドリック・スウェイツ (1882年没)
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- ユリウス・ヒューブナー (1882年没)
- カール・フリードリッヒ・ツェルナー (1882年没)
同じ地域に関係する人物
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- ナポレオン3世 (1873年没)
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