伝記
ヨハネス8世は、9世紀後半のローマ教皇で、在位は872年12月14日から882年12月16日に暗殺されるまでであった。教会慣用名はヨハネである。820年ごろにローマで生まれ、長く助祭長を務めて、ニコラウス1世とハドリアヌス2世の信頼を得た。ハドリアヌス2世の死後、872年に52歳で教皇の座に就いた。若いころにサラセン人によるローマ襲撃を目にしたとされ、9世紀で最も有能な教皇のひとりと評され、次にレオ9世が現れるまでの約200年間の教皇権が、最後の輝きを見せた時期の教皇とも考えられている。
在位の大半は、南イタリアで勢力を広げ北上するイスラム教徒への対応に費やされた。ローマ皇帝ルートヴィヒ2世に援助を求め、その死後は王権に対する教皇権の優位を保とうとして、875年に西フランク王シャルル2世に皇帝の冠を授けた。しかし、フランク人からもビザンツからも援助は得られず、シチリアの首長国に貢納を強いられ、平和を買うために銀貨2万5000枚を支払ったと伝えられる。彼はこの脅威を、悪しきキリスト教徒への神罰と見て、ムスリムとの同盟を禁じるなど敵対的な姿勢をとった。876年にはカンパニアを巡り、サレルノ、カプア、ナポリ、ガエータ、アマルフィの5都市の同盟を目指した。877年にシャルル2世が再びアルプスを越えたが、貴族たちは冷淡で、病を得て帰路のモン・スニ峠で10月6日に亡くなった。教皇は甥にあたる東フランク王カールマンにも助けを求めたが実現せず、881年にはカールマンの弟カール3世に皇帝の冠を授けた。しかし目的は十分には達せられなかった。手持ちの力に頼るほかなくなった彼は、レオ4世が修復した城壁を補強し、城壁外にある聖パウロ大聖堂や修道院、近隣の農民の住居も固め、教皇の艦隊も創設したとされる。
東方との関係にも苦慮した。869年から870年の第4コンスタンティノポリス公会議では、総主教フォティオス1世の追放が決められ、前任のハドリアヌス2世も同意していた。ところが879年、彼はフォティオスの復帰を認めた。主にビザンツをなだめる狙いであり、イタリアからアラブ勢力を追い出すための唯一の望みをビザンツに見ていたためと説明される。この措置で正教会との関係は良好になったが、東方への影響力は弱まったとされる。その後にフォティオスを再び破門したという通説については、現代の研究がラテン側の神話だと論じている。一方、メトディオスのスラヴ人への伝道を支援し、投獄されていた彼が解放されるまでバイエルンでのミサを禁じた。のちに、聖書のスラヴ語への翻訳と、スラヴ語による典礼を許可した。クロアチア公国が教皇の管轄へ戻ったことも認めた。
ローマの中での立場は不安定で、反対派の貴族を破門したこともあり、その中にはのちの教皇フォルモススも含まれていた。882年12月16日、ローマ貴族の抗争に巻き込まれて暗殺された。年代記によると、毒を盛られたうえで撲殺されたといい、犯人は教会内の何者かとされるが不明である。動機としては、教皇庁の財政を使い果たしたこと、カロリング家の支持を欠いたことなどが挙げられている。後任にはマリヌス1世が選ばれ、暗殺の容疑をかけられたフォルモススは無罪とされた。
同じ年に亡くなった人物
- Rorik of Dorestad (882年)
- ガルシア・イニゲス (882年(推定))
- アスコルド (882年没)
- ランス大司教ヒンクマール (882年)
- Eudokia Ingerina (882年)
同じ地域に関係する人物
- ラフ・ヴァローネ (2002年没)
- ルートヴィヒ・カース (1952年没)
- Timagenes (紀元前100)
- ラファエル・メリー・デル・ヴァル (1930年没)
- メフメト・サイード・ハリム・パシャ (1921年没)