HISTORICAL PERSON · 1872年没

メアリー・サマヴィル

スコットランドのサイエンスライターで博学者。独学で数学と天文学を学び、ハーシェルと王立天文学会初の女性会員にノミネートされた。ミルの女性参政権請願では最初の署名者を頼まれた。

生涯
1872年没
死亡地
イタリア共和国(ナポリ)
出生地
イギリス連邦(スコティッシュ・ボーダーズ / ジェドバラ)
出典
世界地図
イタリア共和国(スコティッシュ・ボーダーズ)

伝記

メアリー・フェアファックス・サマヴィルは、1780年12月26日にスコットランドのジェドバラで生まれた科学著述家、博学者である。女性が科学に参加する機会がきわめて限られていた時代に活躍した。父は海軍中将ウィリアム・ジョージ・フェアファックスで、母はスコットランドの複数の名家と縁続きのマーガレット・チャーターズであった。生まれたのは母の姉妹の家である牧師館で、子ども時代はファイフのバーンティスランドの家で過ごした。海から戻った父は、10歳の娘が「野人」のようだと思い、高額な寄宿学校に1年間行かせたが、戻った彼女はようやく読み書きができる程度で、簡単な算術とわずかなフランス語を学んだ。その後は男の兄弟が受けた教育に比べて限られていると本人は感じ、不足を補おうと、おじのトマス・サマヴィル博士からラテン語を習った。兄弟が数学の個人授業を受けているのを耳にして、彼らがわからなかった箇所に答えたこともあり、驚いた家庭教師は、彼女が授業を受け続けることを非公式に許した。

エディンバラではネイスミスに美術を習い、透視図法に感化されてユークリッドの『原論』を手に入れ、独学を始めた。社交界で「ジェドバラの薔薇」と呼ばれたが、妹が10歳で亡くなると、勉強のしすぎが原因と信じた両親に学ぶことを禁じられた。それでも秘密裏に独学を続け、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』なども自力で読んだという。1804年に遠縁のロシア領事サミュエル・グレイグと結婚して二人の子をもうけたが、夫は女性の学問に偏見があり、ロンドンでの生活は不幸だった。夫が1807年に亡くなると、スコットランドへ戻り、プレイフェア教授の勧めで学びを続け、数学者ウォレスと文通して、雑誌の数学の問題を論じた。1811年には1問の答えで銀メダルを受けている。1812年には軍医の査察官であった親戚ウィリアム・サマヴィルと再婚した。夫は彼女の研究を強く後押しし、4人の子が生まれたほか、夫が王立協会の会員になったことで、当時随一の科学者たちのサークルに迎えられた。

1826年に最初の論文を王立協会の会報に載せた。ブルーム卿の依頼でラプラスの『天体力学』を英訳して1831年に刊行すると、ラプラスの業績は英語圏に広まり、彼女自身もたちまち有名になった。翻訳にとどまらず、当時のイングランドの数学者にほとんど知られていなかった数学的な事柄を詳しく解説した。『物理科学の諸関係』(1834年)や『自然地理学』(1848年)は、20世紀になるまで教科書として広く使われた。ウィリアム・ヒューウェルが「サイエンティスト」という語を作ったのは、1843年に『物理科学の諸関係』の書評を書いたときだったという。1842年にはこの書の第6版で、天王星に摂動を与える惑星の存在を示唆し、その予想は1846年の海王星の発見で裏付けられた。

1835年には、カロライン・ハーシェルとともに王立天文学会初の女性会員となり、政府から年300ポンドの年金も受けるようになった。一族は作家ウォルター・スコットの隣人でもあった。友人であるバイロン夫人アナベラの娘エイダ・ラブレスには数学を教え、エイダは彼女とともに科学の会合に出てバベッジと知り合った。1838年から夫と共にイタリアに移り住み、1868年には、ジョン・スチュアート・ミルの女性参政権を求める請願に署名した。1872年11月29日、ナポリで亡くなり、同地のイングランド人墓地に葬られた。翌年に自伝『個人的回想』が刊行された。オックスフォード大学サマヴィル・カレッジは彼女にちなむ名である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物