伝記
アレクシス・キヴィは、本名をアレクシス・ステンヴァルといい、1834年10月10日にフィンランドのヌルミヤルヴィのパロヨキで生まれた小説家、劇作家である。仕立屋の家に生まれたが、生涯を貧困と病気に苦しんだ。母語はフィンランド語だったが、両親はスウェーデン語も話し、1846年にヘルシンキの学校に入ってこの言葉を学んだ。これは後に大学入学資格の試験を通るうえで有利になった。1852年には資金の不足から学業を3年間中断せざるをえなかった。それでも独学で勉強を続け、1857年の秋に試験に合格した。1821年から1868年までの間にヌルミヤルヴィから合格した少年はわずか7人で、彼は庶民階級の出身ではただ一人だったという。1857年には牧師になる夢を捨て、作家となることを決意した。
1859年にヘルシンキ大学に入り、文学を学んで、演劇にも関心を持った。セルバンテスやホメーロス、ダンテ、シェイクスピアらの影響を受けたとされる。在学中の1860年に著した戯曲『クッレルヴォ』は、民族叙事詩『カレワラ』に登場する英雄クッレルヴォの、兄妹相姦による悲劇を描いたもので、フィンランド文学協会賞を受賞した。1863年からは執筆に専念し、その作品はすべてフィンランド語で書かれた。1864年に喜劇『寒村の靴屋』、1866年に『婚約』、1869年には聖書を元にした『レア』を著し、戯曲は十二作にのぼる。『寒村の靴屋』は1865年に国民文学賞を得たとも伝えられる。10年をかけて書いた長編小説『七人兄弟』は主著となった。
しかし同時代の評価は厳しかった。批評家のアウグスト・アールクヴィストらは、この作品の粗野さを批判したが、当時ロマン主義が頂点にあったことのほか、南西部の方言で書かれていたことも一因と見られている。ファンノマン運動も、農村生活を道徳的でなく描いた点を認めなかった。大酒を飲む癖も、周囲を遠ざけたのかもしれないという。行き過ぎたリアリズムと非難され、作品が歓迎されなかったことに傷ついて酒量が増え、心労やアルコール中毒による精神障害で体調は悪化した。のちに統合失調症とされたその病は、現在ではボレリア症が原因だったと考えられている。
1872年の夏、トゥースラに住む兄アルベルト・ステンヴァルの家に身を寄せ、同年12月31日に38歳で没した。伝説では、最後の言葉は「私は生きている」だったという。文学活動は1860年代からのわずか10年で、短かった。しかし新ロマン主義、自然主義、写実主義をフィンランドで先取りした作風で、「フィンランド国民文学の父」と称された。『七人兄弟』は40を超える言語に訳され、小惑星(4181)キヴィにも名が残っている。
彼はフィンランド文学で最初の強い個性とされ、後の世代の作家たちの革新者であり手本となった。最良の戯曲はフィンランド演劇の演目の柱で、ヘルシンキの国立劇場の前には1939年建立の像がある。フィンランドでは毎年アレクシス・キヴィの日が祝われ、この日はフィンランド文学の日でもある。1949年に創設されたユコラ・リレーの名は『七人兄弟』に由来し、1995年から1996年にはラウタヴァーラが彼の生涯と作品に基づくオペラ『アレクシス・キヴィ』を作曲した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ボウリング (1872年没)
- フリードリヒ・ヴェルヴィッチュ (1872年没)
- トマス・サリー (1872年没)
- ゲオルグ・ルートヴィヒ・フォン・マウラー (1872年没)
- カール15世 (スウェーデン王) (1872年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・カジミル・エルンロット (1913年没)
- ニコライ・ボブリコフ (1904年没)
- Keijo Liinamaa (1980年没)
- Rosina Heikel (1929年没)
- ユルィヨ・ヒエタネン (2011年没)