伝記
臨済義玄は、中国の唐代の禅僧である。諡は慧照禅師、俗姓は邢といい、曹州南華県(いまの山東省菏沢市東明県)の出身とされる。臨済宗の開祖であり、没年は咸通8年(867年)である。二十歳のときに出家して義玄と名乗った。はじめは熱心に仏教学者の講義に出て戒律や経論を学んだが、満ち足りなかった。やがて経典の勉強は「済世の医方」、つまり世渡りの道具にすぎないと知り、禅宗へ転じて黄檗希運に師事した。その修行のなかで、いわゆる黄檗三打の機縁によって大悟したと伝えられる。
黄檗のもとで三年ほどひたすら坐禅に励んでいたある日、首座の和尚から、老師に参禅して教えを受けたことがあるかと問われた。何を尋ねればよいかわからないので参禅したこともないと答えると、仏法の限界とは何かを尋ねてみよと勧められた。言われるままに問うたが、質問を終えぬうちに三十棒を受けた。同じことを三度くり返し、三度とも打たれた臨済は、自分には禅を探究する資格がないと絶望して黄檗山を下ろうとした。別れの挨拶に訪れると、黄檗は他所へ行ってはならぬ、高安の灘にいる大愚和尚を訪ねよと指示した。大愚に会って自分に落ち度があったのかと尋ねると、大愚は、黄檗は老婆が孫をかわいがるように、くたくたになるまでお前のために計らってくれているのにと言った。この一言で臨済は大悟した。
大悟した臨済が、黄檗の仏法とはこんなにわかりきったことかとうそぶくと、大愚は彼をつかまえて、いったい何がわかったのかと問いつめた。臨済は大愚の脇腹を拳で三発ほど殴った。本物だと見た大愚は手を放し、お前の師は黄檗だ、帰れと言った。黄檗のもとへ戻って顛末を報告すると、黄檗は、あいつに会って一発お見舞いしたいものだと言った。臨済は「今すぐ喰らえ」と言うなり、黄檗の横面を平手で打った。黄檗は大笑し、虎のひげを撫でるようなことをしおったなと言い、臨済が一喝すると心から満足して、侍者にこの気狂いを禅堂へ連れて行けと命じた。これが印可の言葉であったという。
その後の臨済は、河北の有力な軍閥である成徳軍節度使の帰依を受けた。節度使は禅録では王常侍と呼ばれる。真定府の臨済院に住み、興化存奨をはじめ多くの弟子を育てて北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。宗風は馬祖道一に始まる洪州宗の禅風を極限まで推し進めたもので、「喝」と呼ばれる怒鳴り声を多用する峻烈なものだった。徳山の「棒」と並び称され、その激しさから「臨済将軍」にたとえられた。「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ」という言葉も伝わる。語録では風狂の僧として知られる普化との問答も重要な位置を占め、普化は食卓を蹴倒すなどして臨済を驚かせた。普化は臨済を「こわっぱながらいっぱしの目を持った子」と評したという。
咸通8年正月10日、臨済は弟子の三聖慧然を枕辺に呼び、自分が死んでも正法眼蔵を滅ぼしてはならないと述べた。慧然が、どうして滅ぼしましょうと答えたので、では人が尋ねたらどう応えるのかと問うと、慧然は一喝した。臨済は、わしの正法眼蔵がこの馬鹿坊主のところで滅びるとは誰が知ろうかと言い、そのまま端然として遷化したとされる。言行は慧然によって『臨済録』にまとめられ、北宋代に印刷されて広く流布し、「語録の王」と称された。日本の臨済宗は、1191年に栄西が日本へ伝えたこの系譜に連なり、武士などの支配層に受け入れられて影響力を持った。
同じ年に亡くなった人物
- Eberhard of Friuli (867年(推定))
- エラ (867年没)
- ミカエル3世 (867年没)
- ニコラウス1世 (ローマ教皇) (867年没)
- サリ・アル=サガティ (867年)
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