伝記
ミカエル3世は、東ローマ帝国アモリア王朝の第3代にして最後の皇帝(在位842年〜867年)である。840年1月19日または20日に、皇帝テオフィロスと皇后テオドラの子として生まれ、間もなく共同皇帝として戴冠したとされる。「飲んだくれ」を意味するメテュソスというあだ名で知られるが、これは後のマケドニア王朝時代の歴史家たちがつけたもので、彼らは伝統的にこの皇帝に敵対的であった。
842年に父が29歳で没した時、ミカエルはわずか2歳であった。母テオドラが摂政となり、皇后の腹心である宦官のテオクティストスや、皇后の弟であるバルダスとペトロナスらが政務を支えた。テオドラは幼いころから聖像崇敬者であり、摂政となるとすぐに聖像崇敬の復活を最優先とした。843年にイコン崇拝の復活が宣言され、聖像破壊の時代は終わった。続いてクレタ島の奪回を狙った戦いが始められたが、成果は上がらなかった。
ミカエルは、政務に熱心な母の影で育ち、早くから酒と戦車競走を好み、15歳の頃から愛人エウドキア・インゲリナを持ったとされる。母は結婚相手を選ぶため美女の選考を行い、ミカエルはインゲリナを望んだが、選ばれたのは別のエウドキアであった。ミカエルはこれに従ったものの、妻にはまったく関心を示さず、二人の間に子はなかった。成人すると、母に実権を握られ傀儡でいることを苦々しく思い、かつてテオクティストスと対立して追放されていた叔父バルダスらと組んで、855年にクーデターを起こした。母を修道院に追放して親政を始め、協力したバルダスを重用し、864年には副皇帝にあたるカイサルに任じた。
治世には対外情勢の変化があった。863年にアッバース朝領内の首長が小アジアに侵入した際、バルダスの兄弟ペトロナスを将軍として派遣し、ララカオンの戦いで撃破した。この戦いにはミカエル自身も加わったとされ、以後、東ローマは小アジア東部でイスラーム勢力に攻勢に転じていく。一方、シチリア島ではアグラブ朝の攻勢を食い止められず、小アジアで勢力を広げたパウロ派にも有効な策を打てなかった。860年にはルーシがコンスタンティノポリスに来襲した。首都では建築活動が盛んで、聖ソフィア大聖堂のドームに現存する聖母子のモザイクはこの時代に作られた可能性が高いとされ、867年には宮殿内にファロス教会が建てられた。またキュリロスとメトディオスをモラヴィアへ派遣してスラヴのキリスト教化を進めたことから、ローマ教会との関係は険悪になり、フォティオスの総主教任命をめぐっても対立した。867年には、ミカエルが主宰した教会会議で、ローマ教会の教義を異端として退けるフォティオスの分離が起こった。
晩年、ミカエルはアルメニア系の側近バシレイオスを重用した。バシレイオスは866年4月にバルダスを暗殺し、ミカエルはこれを黙認した。その一か月後、バシレイオスは共同皇帝として即位したが、翌867年、ミカエルは両者の対立の末にバシレイオスによって暗殺された。没日は9月23日または24日とされる。バシレイオスはバシレイオス1世としてマケドニア王朝を開き、アモリア王朝はここに断絶した。のちにバシレイオスの簒奪を正当化するため、ミカエルは暗愚な皇帝であったという逸話が作られたとされる。歴史家オストロゴルスキーは、後世で不当に貶められているが、反動で偉大な皇帝と見るべきでもなく、この時代の真の支配者は叔父のバルダスだったと述べている。
同じ年に亡くなった人物
- テオドラ (867年没)
- Eberhard of Friuli (867年(推定))
- エラ (867年没)
- ニコラウス1世 (ローマ教皇) (867年没)
- Galindo Aznarez I (867年)
同じ地域に関係する人物
- アレクシオス5世ドゥーカス (1204年没)
- エンリコ・ダンドロ (1205年没)
- アリ・フアト・ジェベソイ (1968年没)
- ムラト4世 (1640年没)
- ミカエル1世ランガベー (844年没)