伝記
エゼルウルフは、839年から858年までウェセックス王の位にあった人物である。ウェセックス王エグバートと妃レドブルガの子で、アルフレッド大王の父にあたる。生年は不明で、795年ごろとする推定もある。父エグバートの時代、エゼルウルフはケントの下王を務めており、その間はエグバートもケントにいるときには息子の命に従ったという。838年の大会議で王位継承者に指名され、839年に父がローマ巡礼の途上で亡くなると、王位についた。
当時のブリテン島は七王国時代と呼ばれ、ウェセックスはサクソン人の王国のひとつとして9世紀なかば以降に急速に力をつけていた。一方で、ヴァイキングがたびたび襲来する時代でもあった。エゼルウルフはカロリング朝式の政策を進め、従属国を直接統治に切り替えて集権化をはかった。従属国の貴族に直接金品を与え、本国と従属国で通用する硬貨に自らの肖像を刻んだのは、王はあくまでウェセックスのエゼルウルフであると印象づけるためだった。土地政策では、税がかからず売買や譲渡も自由にできる勅許保有地への転換を一気に進めた。寄進に熱心だった貴族の収入が増えて支持を得ただけでなく、教会の信頼も得られ、国境付近の有力者たちもウェセックスになびいたという。
ヴァイキングとの戦いでは、843年に敗北を喫したが、851年には「エゼルウルフ、エゼルバルドおよび彼らの軍隊がアクレアでデーン軍と戦い、完全勝利をおさめ」たと年代記に記されている。この勝報は西フランクにまで届き、王の名声を高めた。マーシアとは友好関係にあり、ヴァイキングやブリトン人に対して共同で出兵することもあった。エゼルウルフの時代にバークシャーがマーシアからウェセックスの領域に入っているが、戦った記録はない。西フランク王国とも父の代から親密で、フランク風の施政を行った。839年の即位の際には、フランクの儀礼にならって聖別を導入したとされる。
父がなしえなかったローマ巡礼も果たした。エグバートは旅の途中で命を落としていたが、エゼルウルフはフランク王国に通過を願い出て、ローマにたどり着いた。教皇ベネディクト3世の伝記作家によれば、到着は大変な群衆に迎えられ、黄金の王冠や剣、銀の器、絹のシャツなどが献上された。これでウェセックスの名は西ヨーロッパ全域に知れ渡った。帰途にはシャルル2世の歓待を3カ月にわたって受け、856年にその娘ユーディスを2人目の妃に迎えた。ユーディスは結婚の際に聖別を受けた。
晩年は息子たちの争いに悩まされた。最初の妃オズブルガとの間に5男1女があり、そのうち4人の息子が成人していた。855年、末子アルフレッドを連れてローマへ巡礼に出ている間に、次男エゼルバルドとその取り巻きがクーデターを企てた。これが内乱に発展し、王国を東西に分けて、東をエゼルウルフが、西をエゼルバルドが治めることで決着した。その後エゼルウルフは、死後に子らが争わないよう、個人的な領土と政治的な領土を息子や娘、親類に配分した。858年1月13日に亡くなり、ユーディスはのちにエゼルバルドと結婚した。王はウェセックスやケントの貴族の支持を保つことに腐心し、戦士たちを厚く遇したとされる。ウィルトシャーで見つかった「国王エゼルウルフ」の刻印のある金の指輪は、そうした戦士のひとりに与えられたものと推測されている。エグバートとアルフレッドの間にあって目立たない王だが、アルフレッド治世の繁栄の基礎を築いたのはこの王だったと指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
- 李商隠 (858年没)
- ベネディクトゥス3世 (ローマ教皇) (858年没)
- ケネス1世 (スコットランド王) (858年没)
- 文徳天皇 (858年没)
同じ地域に関係する人物
- エリナー・オブ・プロヴァンス (1291年没)
- ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵) (1483年没)
- ノーマン・ハローズ (1968年没)
- マーティン・フライシュマン (2012年没)
- ジョージ・ベイカー (2011年没)