HISTORICAL PERSON · 1867年没

ドミニク・アングル

フランスの画家。ダヴィッドの新古典主義を継承し、ドラクロワらロマン主義に対抗して古典主義の牙城を守った。『横たわるオダリスク』などで知られる。

生涯
1867年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(モントーバン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルは、1780年8月29日、フランス南西部モントーバン近郊のムースティエに生まれた画家である。父ジョセフは画家・彫刻家・装飾美術家とされるが、美術家というより職人で、化粧漆喰、建築、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手がけていた。母はアンヌ・ムレという。アングルも幼少期から絵と音楽を学び、ヴァイオリン奏者としての一面をもった。ニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を結成し、パガニーニのスケッチも残したという。フランス語で彼の名にちなむ語が「(本格的な)趣味」を指すようになったとも伝わる。

11歳でトゥールーズの美術アカデミーに入り、1797年にパリへ出て、新古典派の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門した。1801年に『アキレウスの陣営を訪れるアガメムノンの使者たち』で若手画家の登竜門だったローマ賞を受賞した。受賞者には国費でのイタリア留学が許されるが、当時のフランスの政治的・経済的状況のため延期され、1806年にようやくローマのヴィラ・メディチを訪れた。留学の成果を示すために『スフィンクスの謎を解くオイディプス』『浴女』(1808年)『ユピテルとテティス』(1811年)を制作し、フランスの美術アカデミーに送っている。留学期間が終わっても帰国せず、1813年にマドレーヌ・シャペルと結婚した。1824年までイタリアに滞在し、1820年まではローマ、以後はフィレンツェで活動した。ラファエッロやミケランジェロの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、フランスのサロンにも出品を続けた。『オシアンの夢』(1812年~1813年)『グランド・オダリスク』(1814年)『アンジェリカを救うルッジェーロ』(1819年)はこの時期の作品である。『グランド・オダリスク』の裸婦は胴が異常に長く、同時代の批評家に「脊椎骨の数が普通の人間より3本多い」と揶揄された。アングルが自然の忠実な模写より自分の美意識に沿った構成を重んじたことを示す例とされる。

1824年のサロンに出品したモントーバン大聖堂の祭壇画『ルイ13世の誓願』によって、44歳のアングルはダヴィッドの後継者として、ロマン主義に対抗する新古典主義の指導者として熱狂的に迎えられた。翌年にレジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されている。10年ほどの母国での活動ののち、1834年(1835年とも)に再びローマを訪れ、フランス・アカデミーの院長を務めた。1841年にパリへ戻ると押しも押されもせぬ巨匠と目され、1855年のパリ万国博覧会では大回顧展が開かれた。最晩年の1862年に制作した『トルコ風呂』は、円形の画面に多数の裸婦を描き込んだ作品で、82歳の画家がなお旺盛な制作意欲をもっていたことを示している。

絵画で最大の構成要素はデッサンだと考え、色彩や明暗、構図よりも形態を重んじて安定した画面をつくった。イタリア・ルネサンスの古典を範としつつ、独自の美意識で構成する態度は「復古的でアカデミックでありながら新しい」と評され、ドガやルノワール、セザンヌ、マティス、ピカソらにも影響を及ぼした。同時代には、ドラクロワらのロマン主義が台頭する中、古典主義的な絵画の牙城を守った。当時発明された写真が画家の生活を脅かすとして政府に禁止を求める抗議を行った一方、自らの制作に写真を用いたことでも知られる。1867年1月14日に没した。

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