伝記
マイケル・ファラデーは、1791年にロンドン橋から南へ1マイルほどのニューイントン・バッツで生まれたイギリスの物理学者・化学者である。当時の呼称では自然哲学者にあたる。父ジェームズはサンデマン派の信者で、鍛冶屋の見習いをしていたウェストモーランドの小さな村から、妻と2人の子をかかえてロンドンに出てきた。マイケルが生まれたのはその年の秋で、4人兄弟の3番目だった。貧しい家庭に育ち、学校にはほとんど通えなかった。14歳のとき、近所で製本業と書店を営むジョージ・リーボーのもとに年季奉公に入り、7年間の奉公の間に多くの本を読んだ。アイザック・ウォッツの『精神の向上』に書かれた主義を熱心に実践し、ジェーン・マーセットの『化学談義』などを通じて科学、特に電気への興味を強めていった。
1812年、年季奉公の最後の年に、ジョン・テイタムが創設したロンドン市哲学協会の会合で学び始め、化学者ハンフリー・デービーの講演も何度も聴いた。入場券は、ウィリアム・ダンスが与えたものだった。ファラデーは300ページにもなる講演ノートをデービーに送った。これに感心したデービーは好意的な返事をしたが、科学の道に進みたいと伝えると「今は何の仕事もない」と言われ、落胆した。ところがデービーが塩化窒素の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。さらに王立研究所の助手が解雇されて後任を探すことになり、1813年3月1日、ファラデーは同研究所の化学助手となった。1813年から1815年のデービーのヨーロッパ旅行には、実験助手兼従者として同行した。デービー夫人は彼を対等に扱わず、馬車では御者席に座らせ、食事も使用人とともにとらせたという。この扱いに落胆し、帰国後は科学の道を捨てようとまで考えたが、旅行では欧州の著名な科学者に出会って刺激を受けた。1821年にはサラ・バーナードと結婚した。子供はできなかった。
初期の化学の仕事はデービーの助手としてのもので、塩素を研究し、2種類の炭素塩化物を発見した。1823年に塩素の液化に成功し、1825年にはベンゼンを発見した。1833年には電気分解の法則を発見した。電磁気の分野では、エルステッドの発見を受けて1821年に電磁回転を生じる2つの装置を作った。これが電動機の基礎となったが、デービーらの許可を得ずに公表したため、デービーとの関係は悪化したと見られる。それでもデービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。1831年、一連の重要な実験を重ねた末、8月29日に電磁誘導を発見した。鉄の環に絶縁導線を巻いた2つのコイルの一方に電流を流すと、他方に瞬間的に電流が流れた。この電磁誘導の法則を、のちにマクスウェルが数理モデル化した。電気力線・磁力線という近接作用の考えにも立ち、1845年には物質が磁場に弱く反発する反磁性を見いだし、光の進む方向に磁場をかけると偏光面が回転するファラデー効果も発見した。
敬虔なサンデマン派の信者で、輔祭や長老を務めた。王立研究所の初代フラー教授職を死去するまで務め、1867年8月25日に亡くなった。静電容量の単位「ファラド」や、ファラデー定数に名が残っている。
同じ年に亡くなった人物
- マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス (1867年没)
- Jozsef Kossics (1867年没)
- ジャン・ピエール・フルーランス (1867年没)
- ガンツ・アーブラハーム (1867年没)
- ジャック・イニャス・イトルフ (1867年没)
同じ地域に関係する人物
- ヒュー・ル・ディスペンサー (小ディスペンサー) (1326年没)
- エゼルベルト2世 (794年没)
- クリス・ローレンス (2011年没)
- フランシス・ゴッドウィン (1633年没)
- オウエン・テューダー (1461年没)