伝記
第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、1784年10月20日にロンドンのウェストミンスターで生まれたイギリスの政治家である。アイルランド貴族パーマストン子爵家の長男で、母はメアリー、弟1人と妹3人がいた。幼いころはフランス人女性の家庭教師からフランス語を学び、1792年から1794年には両親とともにフランスやスイス、イタリアなどを旅して、フランス語とイタリア語を習得したという。1795年にハーロー校に入学し、同級生には後のアバディーン伯爵がいた。1800年にエディンバラ大学に進んで教授から政治経済を学び、自由主義的な思想を培った。1802年4月の父の死により17歳で子爵位を継ぎ、マームズベリー伯爵が後見役となった。1803年にケンブリッジ大学へ移り、フランスとの戦争が始まると学内の義勇部隊に入って、三人の将校の一人となった。1806年には首席で卒業した。
アイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれない限り貴族院議員にならず、逆に庶民院に立候補できたため、彼は庶民院議員を目指した。1806年の補欠選挙などで三度つまずいたが、1807年の総選挙でトーリー党候補としてワイト島の選挙区から当選し、四度目の挑戦で議席を得た。その後はポートランド公爵内閣の下級海軍卿を経て、スペンサー・パーシヴァルの内閣で大蔵大臣の打診を受けたが、政界入りしたばかりの自分には早すぎるとして断り、閣外大臣の戦時大臣に就いた。以後1809年から1828年まで、21年にわたってこの職を務めた。ジョージ・カニングを支持するトーリー党内の自由主義派で、1828年にカトリック問題をめぐって執行部と仲たがいし、他のカニング派閣僚とともに辞職した。
その後ホイッグ党に合流し、1830年に成立した政権で外務大臣を務めた。ベルギー独立問題や東方問題で会議外交を展開してヨーロッパ大国間の戦争を回避する一方、阿片戦争を主導した。1841年の総選挙敗北で退任したが、野党時代にはアバディーン伯爵の弱腰外交を批判して活躍した。1846年から再び外相となり、1850年には一国民の損害賠償取り立てを支援するためギリシャに艦隊を派遣した。このときの「古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も護られている」という趣旨の演説で人気を博した。しかし1851年、フランス大統領ルイ・ナポレオンのクーデタを独断で支持表明したとしてジョン・ラッセル卿に外相を解任された。ラッセルと対立して保守党と連携し、その内閣を倒している。
1852年12月のアバディーン伯爵内閣では内務大臣として入閣したが、関心は外交にあり、1853年にクリミア戦争が勃発すると対ロシア開戦派として行動し、参戦に導いた。1855年2月に組閣の大命を受けて首相となり、1856年にアロー戦争を起こし、1857年のインド大反乱を徹底的に鎮圧した。1858年に殺人共謀の重罰化の法案を提出したことで野党や世論の反発を買って総辞職したが、1859年にラッセルと和解して自由党の結成に主導的な役割を果たし、第二次内閣を樹立した。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の調停には失敗し、ビスマルクがドイツ統一の最初の地歩を築くのを阻止できなかった。その翌年の1865年10月18日、首相在任中に病死した。
同じ年に亡くなった人物
- フェリーチェ・ロマーニ (1865年没)
- フリードリヒ・オーギュスト・シュテューラー (1865年没)
- センゲリンチン (1865年没)
- ジョセフ・ルボー (1865年没)
- アントワーヌ・ヴィールツ (1865年没)
同じ地域に関係する人物
- クロード・ボーズ=ライアン (第13代ストラスモア=キングホーン伯爵) (1904年没)
- ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯) (1903年没)
- リチャード (コーンウォール伯) (1272年没)
- エディ・ベイリー (2010年没)
- エベネザー・ハワード (1928年没)