伝記
第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1830年2月3日、ハートフォードシャーにある侯爵家の邸宅ハットフィールド・ハウスで生まれたイギリスの政治家である。父は王璽尚書や枢密院議長を務めた第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ、母は庶民院議員バンバー・ガスコインの娘フランセスで、ロバートは三男だった。次姉マリーはのちに大富豪に嫁ぎ、後の首相アーサー・バルフォアを産んでいる。ハットフィールド・ハウスは、エリザベス1世が即位前に住んだ邸宅で、ジェームズ1世が1607年に宰相ロバート・セシルにソールズベリー伯爵位とともに与えたものだった。
10歳で名門イートン校に入学したが、病気がちで気難しく、友達を作れなかったため、いじめに遭った。14歳の頃に父に宛てて、朝から晩まで絶え間なくいじめられ、食堂へ行くと足蹴にされるため何も食べずに出なければならない、と苦境を訴えている。15歳のとき父の許可を得て退学し、2年ほどは家庭教師のもとで学んだ。この体験が、彼のシニカルな現実主義を形づくったともいわれる。1848年1月にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入って数学を専攻したが、病弱に加えうつ状態にもあり、2年で第4級の学位を取って退学した。それでも大学の討論会オックスフォード・ユニオンで書記や幹事を務め、辛辣で皮肉な演説の手法を確立し、厳格なトーリー主義もこの時期に固まって、選挙権の拡大やユダヤ人への市民権付与、自由貿易に反対した。うつ状態から立ち直ると、植民地を旅し、1851年7月にケープ植民地、1852年1月にオーストラリアのアデレード、さらにニュージーランドを訪れた。
1853年8月、23歳で保守党候補として庶民院議員となり、対立候補がおらず無投票で当選し、以後15年間この選挙区で無投票で再選された。1854年4月の処女演説では、与党のラッセルのオックスフォード大学改革案を批判し、グラッドストンは敵ながら将来有望な議員だと注目したという。1857年7月に裁判官の娘と結婚したが、父がこれに強く反対して仕送りを打ち切ったため、執筆業で生計を立て、『クォータリー・レビュー』などに寄稿して、民主主義への強い疑念を示した。1865年に兄が死去すると、侯爵家の嫡男としてクランボーン子爵を名乗った。1866年にダービー伯爵の内閣にインド担当大臣として入閣したが、第二次選挙法改正に反対して、すぐに辞任した。1868年に父の死で侯爵位を継ぎ、貴族院に移った。
1874年に第二次ディズレーリ内閣にインド担当相として入閣し、ディズレーリと和解した。露土戦争の後、外相ダービー伯爵が辞職すると、後任の外相に就き、ベルリン会議の成功に貢献した。ディズレーリの死後、保守党の貴族院の指導者から全党の党首となり、1885年に第一次内閣を発足させた。その後、1886年8月に第二次内閣、1895年に第三次内閣を発足させ、通算3度首相を務めた。内政ではジョゼフ・チェンバレンの影響を受けて漸進的な改革を行い、外交では帝国主義を推し進めて、1898年のスーダン再征服とファショダ事件、1899年に始まる第二次ボーア戦争を遂行した。極東ではロシアの満洲占領を警戒し、1902年に日英同盟を締結した。同年に病で退任し、甥のバルフォアに後を譲り、1903年8月22日に死去した。典型的な貴族主義的保守主義者で、選挙権の拡大や民主主義に強く反対したが、ノブレス・オブリージュを持ち、漸進的な改革を妨げなかった。
同じ年に亡くなった人物
- オーギュスタ・オルメス (1903年没)
- アルベルト・シェフレ (1903年没)
- アレクサンダル1世 (セルビア王) (1903年没)
- レオ13世 (ローマ教皇) (1903年没)
- フーゴ・ヴォルフ (1903年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・S・ギルバート (1911年没)
- ロジャー・ミッシェル (2021年没)
- デニス・ブレイン (1957年没)
- エドワード・ヤング (詩人) (1765年没)
- ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵) (1937年没)