伝記
リュシアスは、古代ギリシアの弁論作者(ロゴグラフォス)で、アッティカ十大雄弁家の一人である。紀元前445年頃に生まれ、紀元前380年頃に没したとされ、アテナイで活躍した。古代の伝えには紀元前459年生まれとするものもあるが、これはトゥリオイ建設から逆算した年代と考えられ、現代の研究者は生年をもっと遅くみている。
アテナイの在留外国人メトイコイの家に生まれた。父ケパロスはシケリア(シュラクサイ)の出身で、ペリクレスに招かれてアテナイに移り住んだ。家は裕福で、リュシアスには兄弟がおり、高い教育を受けて育った。長兄ポレマルコスの家は、プラトンの『国家』の冒頭の舞台になっている。また『パイドロス』は、パイドロスがリュシアスと話した帰りにソクラテスと出会う場面から始まる。紀元前443年に兄弟とともに南イタリアの新しい植民市トゥリオイに移り、そこで弁論術を学んだとも、教えたともいわれる。しかしアテナイのシケリア遠征が失敗すると、トゥリオイの情勢は不安定になった。反アテナイ派によってリュシアスたちは追放され、アテナイに戻った。伝承では、リュシアスとポレマルコスは300人ほどとともに、アテナイびいきとして訴えられ、追われたという。
アテナイに戻ると、ペイライエウスで楯の製作所を営みながら弁論作者として活動を始めた。兄弟は在留外国人でも市民と同じ税だけを払うイソテレイアの身分を得ていたとされ、製作所には百二十人の熟練した奴隷が働いていたという。ペロポネソス戦争の敗北で成立した寡頭政の三十人政権は、在留外国人を標的にし、リュシアスの財産を没収した。リュシアスは多額の賄賂を使い、囚われていた家の裏口から抜け出して、舟でメガラへ亡命した。兄ポレマルコスは逮捕され、毒を飲まされて殺された。アテナイで民主派と寡頭派の内戦が始まると、リュシアスは民主派に傭兵300人を送り、2000ドラクマの資金援助も行った。内戦が終わって和解交渉が始まるころアテナイに戻り、イソテレイアを認められた。没収された財産は戻らなかったが、アテナイでの生活を続けることを選び、ふたたび弁論作者として活躍した。民主派のトラシュブロスは功績に市民権を与えるよう提案したが、反対されて通らなかったともいわれる。
リュシアスの弁論は、写本で伝わった31篇と、ほかの著作家を通じて伝わった4篇があり、かつては400篇を超える作品が彼の名で存在した。現存する作品のほとんどは、民主政が復活した紀元前403年以降に書かれたものである。リュシアスは内戦で民主派を支えたが、寡頭派の人々の弁論作成も引き受けた。本人が演説したのは『弁論第12番(エラトステネス告発)』だけで、三十人僭主の一人エラトステネスを攻撃した内容である。この弁論は、戦後アテナイを知る史料としてよく引かれる。ソクラテスのために弁護の文章を書いたが断られたという話は、混同から生じたものらしい。
リュシアスの弁論術はアテナイで高く評価され、プラトンの『国家』と『パイドロス』にも名が出てくる。古代の批評家は、日常の言葉づかいに近い簡潔な文体を、その手本とみた。他方、彼の弁論には、政治への無関心や私事への逃避を認めるような内容もある。そうした政治的なことがらを避ける姿勢はアプラグモシュネ(消極主義)と呼ばれ、アテナイでは批判の対象になった。生涯を伝える材料としては、自身の弁論、プラトンの二作、ハリカルナッソスのディオニュシオスの伝記、伝プルタルコスの『10人の弁論家の生涯』がある。
同じ年に亡くなった人物
- ハコル (紀元前380年没)
- マルクス・マンリウス・カピトリヌス (紀元前380年代没)
- アゲシポリス1世 (紀元前380年没)
同じ地域に関係する人物
- アンティポン (紀元前411年没)
- ミハイル・スタシノプロス (2002年没)
- エピアルテース (紀元前460)
- Alexis (紀元前269)
- スピリドン・トリクピス (1873年没)