伝記
マルクス・マンリウス・カピトリヌスは、共和政ローマの政治家、軍人である。生年は不詳で、紀元前384年に処刑された。救国の英雄の一人でありながら、のちに王位を狙ったとして罰せられた人物である。マンリウス氏族の出で、アウルス・マンリウス・カピトリヌスの兄にあたる。
紀元前392年に執政官となり、同僚はルキウス・ウァレリウス・ポティトゥスであった。4年前にマルクス・フリウス・カミッルスがウェイイを陥落させた際に移された、ユーノー神殿の奉納を行った。アエクイ族との小競り合いにも勝ち、ポティトゥスは凱旋式を、マンリウスは小凱旋式を挙行した。その後ローマで疫病が広がり、両執政官も罹患した。
紀元前390年(もしくは387年)、ガリア・キサルピナに移住していたブレンヌス率いるセノネス族がクルシウムを脅かし、クルシウムはローマに救援を求めた。ローマは使節を送ったが交渉は決裂し、怒ったセノネス族にアッリアの戦いで敗れると、ローマは包囲され、人々はカピトリヌスの丘に立て籠もった。そのころガリア人も丘への進入路に気づき、夜にまぎれてよじ登ろうとした。歩哨も犬も気づかなかったが、ユーノー神殿のガチョウだけが鳴き騒ぎ、マンリウスを目覚めさせた。マンリウスは仲間に警告しながら現場に急行し、敵をなぎ倒したと伝えられる。「カピトリヌス」のあだ名はこの功績によるとされる。人々は乏しい食料を少しずつ持ち寄ってマンリウスに与え、その働きをたたえたという。ただし、この丘の救出の話は、のちに名の由来を説明するために作られたものだとする見方もある。紀元前387年には、次の執政官もしくは執政武官が選ばれるまでのインテルレクスの一人となった。
紀元前385年、ウォルスキ族との戦いが続くうえ、ラティウムとヘルニキ族までが背いた。国内ではマンリウスがパトリキでありながらプレブスのパトローネスを名乗り、高利貸を非難し始めた。リウィウスによれば、同じ救国の英雄であるのにカミッルスだけが名声を独占することに耐えられなかったのだという。この危機にアウルス・コルネリウス・コッススが独裁官に任命された。マンリウスは、債務の支払いを命じられて引き立てられるケントゥリオを見つけると駆けつけ、債務を肩代わりして自由の身にした。ウェイイにあった自分の土地も人々に売り与え、高利貸に苦しむ人々を見捨てないと宣言した。さらに、先年ガリア人に支払うために集めた金銀を元老院議員が着服しており、それで皆の債務を返せると言い立てて、騒ぎを広げた。
ウォルスキとの戦いを優勢に進めていた独裁官が呼び戻され、集会でマンリウスと対決した。本当に議員が公金を横領しているなら在処を明かせという求めに、マンリウスは答えず、牢に入れられた。人々は、貧民を救おうとして処刑されたカッシウスやスプリウス・マエリウスを思い出して怒り、暴動寸前となったため、元老院は彼を釈放した。翌年も怒りは収まらず、密議を重ねるうちに、執政官と独裁官の廃止にまで言及したという。元老院は護民官を使って告発した。マンリウス氏族の誰も同行しなかったが、王位を狙ったとして訴えられた彼は、救ってきた多くの人々を証人に呼び、カンプス・マルティウスでの投票では自らが守ったカピトリヌスの丘を指して訴えたので、人々は投票をためらい、延期された。丘の見えない場所で再び行われた投票で有罪となり、タルペイアの岩から突き落とされて処刑された。死後、マンリウス氏族は今後誰もマルクスを名乗らないと決めた。のちに疫病が流行すると、人々は、英雄の血でカピトリヌスを汚したからだとささやいたという。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
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- ジュゼッペ・ヴァレンティーニ (1753年没)
- Gaius Licinius Macer (紀元前65)