伝記
イドリース2世(791年10月15日-828年8月29日)は、モロッコを支配したイドリース朝の第2代イマームである。在位は803年から828年とされ、王朝の全盛期をつくった英主と評される。イブン・ハルドゥーンによれば、「若きイドリース」と名乗った。
父は初代のイドリース1世で、父が没したのは791年(793年説もある)とされる。生母はベルベル人で、奴隷身分の妾であったとも、アワルバ族の長イスハーク・イブン・アブドゥルハミードの娘カンザであったともいわれる。父の死のとき母は身ごもっていて、二か月ほどのちに男児を産み、イドリースと名づけられたという。ワリリ(ウォルビリス)で生まれたともされる。父がバグダードから亡命してモロッコへ来た際に付き従った解放奴隷のラーシドが、アブー・ハリール・アル=アブディーとともに摂政の役を務め、イドリースはその庇護のもとで育った。
803年、中アトラスのベルベル人諸部族が忠誠を誓い、イドリースは11歳で擁立された。このときに与えられた称号は定かでなく、政治的な駆け引きは続いたとされる。アラブの出であるため、ベルベル人のなかでは外来者とみられることが多かった。808年には、アワルバ族の長イスハーク・イブン・ムハンマドが、ケルアンのアグラブ朝と通じて王朝を倒そうとしたと疑われて処刑された。この出来事を受けて、若いイマームは諸部族にあらためて忠誠の誓いをさせ、権力を固めた。積極的に人材を招いたのも、この王朝の特色である。スペインやイフリーキーヤ(チュニジア)から500人のアラブ兵を呼び寄せ、モロッコ北部のアラブ化を進めた。南部で敵対していたベルベル人のマスムーダ族を討って、勢力を広げた。808年(809年とも)にはフェズに新都を築いた。フェズ川左岸にはケルアンをモデルにした街区と二つのモスク、王宮ダール・アル=カイトゥーンが造られ、織物の市場と造幣所も置かれた。コルドバやケルアンからの移民の入植が奨励され、都は大いに栄えた。814年または818年には、コルドバの郊外で起きた反乱の後に追われた多数の人々が、フェズへ流れ込んだ。
イドリースは周辺のベルベル人の軍勢と手を組んで遠征を重ね、周囲の部族のイスラーム化を図った。高アトラスと、サハラ交易の要衝であるナフィスやアグマートを支配下に置き、トレムセンも手に入れて、晩年の三年をそこで過ごしてからフェズへ戻った。ただしバルガワータ族が固く守るタムスナの攻略には失敗した。828年に没し、フェズのシャリーフたちのモスク、あるいはワリリの父の傍らに葬られたとされる。
死後、長男のムハンマド・イブン・イドリースがイマームとしてフェズとワリリを継いだ。ただ領土は多くの息子に分割され、カースィムは北部のタンジェやセウタ、ウマルはゴマラ地方とテトゥアン、アフマドはメクネスとタドラなどを受けたという。それが公国なのか、フェズのイマームに従う領地なのかは確かめられず、兄弟間の緊張を生んだ。王朝の中枢の役目は、しだいにアンダルス出身の新来者が担うようになり、政治の均衡はベルベル人に不利に傾いた。イブン・ハルドゥーンは、モロッコの王国がバグダードやコルドバから独立して確立したのはこの治世以降とみた。フェズは、ベルベル人のイスラーム化とアラブ化の拠点となった。彼の墓は1458年ごろにフェズのメディナで見つかったという。
同じ年に亡くなった人物
- アサド・イブン・アル=フラート (828年)
- ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (828年没)
- イブン・ヒシャーム (828年没)
- アブー・アル=アターヒヤ (828年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド聖王子 (1443年没)
- ボアブディル (1454年没)
- アフマド・アル=ティジャニ (1815年没)
- アブド・アル=ハック2世 (1465年没)
- ムハンマド・イブン・イドリース (836年没)