HISTORICAL PERSON · 824年没

パスカリス1世 (ローマ教皇)

第98代ローマ教皇(在位817〜824年)。教会の再建を完成させ、母の墓所にサン・ゼノーネ礼拝堂を建設。カタコンベを発掘して殉教者の遺骨を多数移し、聖女チェチリアの教会も再建した。

生涯
824年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

パスカリス1世は、第98代ローマ教皇(在位817年〜824年)である。教皇列伝によれば、ローマの生まれで、父はボノスス、母は司教夫人と呼ばれたテオドラであった。ローマの貴族の家系に属し、前任者ステファヌス4世と同じマッシミ家の出とする記録もある。教皇に就く前は、ローマを訪れる巡礼者の世話を担う聖ステファノ修道院の院長を務めていた。この修道院の管理は教皇レオ3世から任されたものだという。後世の記述には、レオ3世が彼をサンタ・プラッセーデ教会の枢機卿司祭に引き上げたとするものもあるが、研究者はこれを、のちに彼がその教会に注いだ格別の関心を説明しようとした後づけの話と見ている。

817年1月25日、ステファヌス4世が急死した翌日に、彼は教皇となった。この選出は皇帝ルートヴィヒ敬虔王の承認を得ないまま行われたため、就任の冒頭で彼は、その礼を欠いたことを詫び、望んだ地位ではなかったと述べた。ローマで派閥の争いが起こるのを避けるための決定だったとも説明している。教皇列伝は、使者テオドルスが皇帝の祝意と教皇領に対する教皇の主権の承認、将来の教皇選挙の自由の保証を記した文書を持ち帰ったと伝えるが、この文書は現在の歴史家から偽作ではないかと疑われている。当初、皇帝は前任者の時にランスで結ばれた合意を追認し、両者は822年に、ランス大司教エボをデンマーク人への布教に送り出すなど協力した。

823年の復活祭に、パスカリスは皇帝の子ロタール1世に戴冠し、聖油を授けた。だがロタールは父ほど教皇庁に協力的ではなく、ローマ北方のファルファ修道院を教皇への課税から免除する裁定を下した。これに反発した教皇宮廷の貴族たち、とりわけかつての使者テオドルスとその娘婿レオは、若いフランク王の支持を頼った。やがて北イタリアで教皇庁の権威に対する蜂起が起こったが、すぐに鎮圧され、首謀者のうち二人が捕らえられて目をつぶされたのち、教皇の側近らによって斬首された。パスカリスは関与を否定したが、皇帝は疑いを解かず、二人の使節を送って調べさせた。教皇は皇帝の法廷に服することは拒んだものの、三十四人の司教が集う教会会議の前で潔白の宣誓を行い、皇帝はこの件を追及しなかった。

パスカリスは建築でも知られる。ビザンツ帝国から聖像破壊への反対ゆえに迫害されて逃れてきた修道士たちを保護し、亡命したモザイク職人に教会の装飾の仕事を与えた。サンタ・プラッセーデ、サンタ・マリア・イン・ドムニカ、サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレの三つのバシリカを再建し、これらの教会のモザイクには彼自身の写実的な肖像が描かれている。カリストゥスのカタコンベで聖女チェチリアの遺体を見いだし、再建した教会へ移したとも伝えられる。研究者は、彼が教会の建設を通じて、独立した国家としての教皇の権威を示そうとしたと述べている。

824年2月11日に没した。ローマの教皇庁は、その苛烈な統治を理由に、サン・ピエトロ大聖堂への埋葬を認めなかった。遺体は母のモザイクで名高いサンタ・プラッセーデ教会に葬られた。16世紀後半に聖人とされ、祝日は1963年以前は5月14日、現在は2月11日である。

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