伝記
ジョルダーノ・ブルーノは1548年、ナポリ王国のノーラに生まれたイタリアの哲学者で、ドミニコ会の修道士である。もとの名はフィリッポ・ブルーノといい、父ジョヴァンニは兵士であった。14歳でナポリに移ってナポリ大学で学び、1565年、17歳でドミニコ会に入ってジョルダーノを名乗った。1572年に司祭となり、1575年にはトマス・アクィナスらについての論文で神学博士となっている。トマスへの尊敬は生涯続いたが、ナポリ時代にすでに独自の思想を育みはじめており、その源泉は新プラトン主義、ヘルメス主義、カバラ、アラビア思想など多岐にわたる。
1576年に異端の嫌疑をかけられると、異端審問所の追及を逃れてナポリを離れ、北イタリア各地で文法や天文学を教えながら放浪した。1578年にアルプスを越えてフランスに入り、翌年はジュネーヴに滞在したが、カルヴァン派の哲学者と論争して名誉毀損で有罪となり、同地を離れた。トゥールーズ大学の講師を経て、1581年にパリへ移ると、優れた記憶力が評判となってアンリ3世とも会見し、1582年には王立教授団の講師に任命された。1583年にはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスへ渡ったが、オックスフォード大学の教授職は得られなかった。それでもロンドンでの2年半に、『聖灰日の晩餐』『無限・宇宙・諸世界について』など6つの対話篇を刊行している。
その後もブルーノの遍歴は続いた。1585年にパリへ戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した120のテーゼが問題とされ、ドイツへ去った。ヴィッテンベルク大学ではアリストテレスについて2年間講義し、1588年にはプラハでルドルフ2世から年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。ヘルムシュタットではルター派の権威者たちの反感を買って立ち去った。1591年にはフランクフルトで『モナド論』などの3部作を刊行した。同年、ヴェネツィアの貴族モチェニゴから記憶術の指南を求められ、イタリアに戻る決意をする。途中のパドヴァ大学の数学教授の座はガリレオ・ガリレイに持っていかれたが、ヴェネツィアで2か月ほどモチェニゴの家庭教師をつとめた。しかしそのモチェニゴに訴えられ、1592年にヴェネツィア官憲に逮捕され、さらに異端審問所が介入して、ローマの異端審問所に引き渡された。
ローマに移された1593年以降、裁判はなかなか行われず、ブルーノは7年を獄中で過ごした。告発理由は瀆神、不道徳な行為、教義神学に反する教説などで、罪状は最終的に24に上った。枢機卿ベラルミーノは自説の完全な撤回を求めたが、ブルーノは一部の主張には譲歩する姿勢を見せたものの、最終的にはすべての撤回を拒んだ。1600年1月8日に死刑判決が下され、同年2月17日、カンポ・デ・フィオーリ広場で火刑に処された。目撃したブレスラウの学生の手記によれば、ブルーノは宣告した者たちの方が真理の前に震えているではないかと言い、司祭が差し出した十字架にも侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背けたという。遺灰はテヴェレ川に捨てられた。
著作は1603年に禁書目録に加えられたが、イタリアの外で出版されていたため、わずかながら流通し続けた。19世紀には「科学の殉教者」として称揚されたが、20世紀後半以降の研究では、処刑理由は主として神学上の異端にあり、科学説そのものではないと理解されている。1889年には処刑地のローマにブルーノ像が設置され、2000年には教皇庁の国務長官が、その火刑を「近代キリスト教史における悲しい出来事」と評した。
同じ年に亡くなった人物
- カール1世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公) (1600年没)
- ガスパル・デ・レモス (1600年(推定))
- バルタザール・ルッソウ (1600年)
- 小西行長 (1600年没)
- Robert de Nola (1600年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ピオ・ラギ (2009年没)
- ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルス (紀元前262年の執政官) (紀元前253年没)
- ステーノ (1988年没)
- マルクス・リウィウス・ドルスス (紀元前108年没)
- マルチェロ・マルピーギ (1694年没)