伝記
ジョン・ブラウンは、1800年5月9日にコネチカット州トリントンで生まれたアメリカの奴隷制度廃止運動家である。父オーウェンと母ルスの8人の子の4番目で、祖父は同名のジョン・ブラウン大尉であった。1805年に一家はオハイオ州ハドソンへ移り、なめし革工場を始めた。ブラウンは16歳で家を離れ、予備校を経て専門学校に進み、会衆派教会の牧師になることを望んだ。ところが金が尽き、目に炎症も起こしたため断念し、オハイオに戻った。父の工場を手伝った後、義兄弟と自分のなめし皮工場を開いて成功し、1820年にダイアンズ・ラスクと結婚した。1825年にはペンシルベニア州に移って土地を買い、工場を建てて牛の飼育や測量でも稼ぎ、郵便局や学校の建設にも力を貸した。
1831年に息子の一人が死に、自身も病気になって事業が傾き、かなりの借金を背負った。1832年には生まれたばかりの息子に続いて妻ダイアンズも亡くなり、翌年、16歳のメアリー・アン・デイと再婚した。前妻との間に7人の子がいたが、再婚後にさらに13人が生まれている。1836年にオハイオ州フランクリンミルズに移ってなめし皮工場を経営したが、1839年の経済危機で大きな損失を出し、1842年9月には連邦裁判所から破産を宣告された。1843年には子供のうち4人が赤痢で死んだ。その後は羊と羊毛の専門家として評判を得、1846年には共同経営者とともにマサチューセッツ州スプリングフィールドで羊毛の取次業を始めたが、ヨーロッパへの出張が大失敗に終わり、4万ドルの損失を出した。ブラウンは農場経営や羊の飼育には天分があったが、事業の管理者ではなかったとされる。
一方、1837年にイライジャ・P・ラブジョイが殺された事件の際には、公の場で「ここに、神の御前で、これから、私はこの人生を奴隷制度の破壊のために捧げる」と誓った。1855年、ニューヨーク州ノース・エルバに移って間もなく、カンザス準州にいる成人した息子たちから、奴隷制擁護派が好戦的で備えのない家族が襲われる危険があるとの知らせが届いた。ブラウンは家族を守るためカンザスへ向かい、途中で資金や武器を集めた。奴隷制擁護派に平和的な抵抗を説いていた北部の人々とは異なり、暴力的な行動を求め、既成の運動が奨励する平和主義には満足せず、「我々に必要なことは行動だ」と言ったと伝えられる。1856年5月、ローレンス市への攻撃に怒り、ポタワトミーの虐殺として知られる事件で南部の奴隷制擁護派5人を殺すことになった。
最もよく知られる行動は、1859年のバージニア州ハーパーズ・フェリーにあった連邦政府の武器庫の襲撃である。ブラウンは武器庫を占拠し、解放黒人1人を含む7名を殺害して10名以上に負傷させたが、武器庫の武器で奴隷たちを武装させるつもりだった計画は失敗した。36時間のうちに部下たちは逃亡するか、ロバート・E・リーの指揮する海兵隊などに殺されるか捕えられた。ブラウンはバージニア州に対する反逆罪で裁かれ、1859年12月2日に絞首刑となった。北部の諸州では教会の鐘が鳴らされ、弔砲が撃たれ、エマーソンやソローらが彼を称えた。歴史家の評価は割れており、狂人とみる者がいる一方、「アメリカのテロリズムの父」と呼ぶ者もいる。事件は南北の緊張を強め、約16か月後に始まる南北戦争の重要な原因の一つとなった。歌「ジョン・ブラウンの遺骸」は、のちに北軍の行進曲になった。
同じ年に亡くなった人物
- クレメンス・フォン・メッテルニヒ (1859年没)
- シュテファニー・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン (1859年没)
- アレクシ・ド・トクヴィル (1859年没)
- トマス・ド・クインシー (1859年没)
- 吉田松陰 (1859年没)
同じ地域に関係する人物
- ハンク・ウィリアムズ (1953年没)
- ウィリアム・ルーサー・ピアース (2002年没)
- フレッド・シャウス (2010年没)
- ジェームズ・ジョセフ・バルジャー (2018年没)
- コーンストーク (1777年没)