HISTORICAL PERSON · 1859年没

アレクシ・ド・トクヴィル

フランスの政治思想家・政治家。アメリカを見聞して『アメリカのデモクラシー』を著し、のちに外務大臣も務めた。

生涯
1859年没
死亡地
フランス共和国(アルプ=マリティーム県 / カンヌ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(アルプ=マリティーム県)

伝記

アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィルは、1805年7月29日にパリで生まれたフランスの政治思想家、法律家、政治家である。生家はノルマンディー地方の貴族で、軍人や大地主を出した由緒ある家柄だった。父エルヴェ・ルイ・フランソワ・ジャン・ボナヴァンチュール・クレレルの三男で、曽祖父は1793年に処刑された政治家マルゼルブとされる。フランス革命の際には親戚が多数処刑されており、そのことから彼はリベラルな思想の研究を行ったという。メスのリセ・ファベールで学び、1826年6月にパリ大学で法学学士号を得た。1827年4月にはヴェルサイユ裁判所の判事修習生となり、1829年から1830年にかけてはフランソワ・ギゾーの歴史講義に多大な影響を受けている。

1831年4月、ボーモンとともにアメリカ合衆国へ旅立ち、翌1832年2月まで滞在した。アンドリュー・ジャクソン大統領の時代のアメリカで諸地方を見聞し、自由と平等を追求する新しい価値観のもとに生きる人々の様子を克明に記した。1832年5月にヴェルサイユ裁判所の陪席判事を辞し、1833年にはボーモンと『合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について』を出版して、アカデミー・フランセーズのモンティオン賞を受けた。1835年1月に『アメリカのデモクラシー』第一巻が出版され、同年10月、家族の反対を押し切って、英国人でフランスに移り住んだ平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚した。1838年には道徳・政治科学アカデミーの会員となり、1839年にマンシュ県バローニュ選出の下院議員となった。1840年4月に第二巻を出版し、1841年12月にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。

『アメリカのデモクラシー』は近代民主主義思想の古典とされる。第一巻では、アメリカを近代社会の最先端と見なし、新時代の先駆的役割を担うだろうと述べた。ところが第二巻では、その先に経済と世論の腐敗した混乱の時代が待つとも予言している。民主政治は「多数派による専制政治」になりうると考え、多数派の世論を形づくるのは新聞のようなものだろうとみた。混乱を解く鍵として、宗教者や学識者、長老政治家といった知識人の存在が重要だと考え、民主政治が大衆の教養水準や生活水準に左右されるとも述べた。序文には「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」とある。日本では福澤諭吉が『分権論』の中で、小幡篤次郎の訳文を引用している。

1848年の二月革命の後は、憲法制定議会の議員に選ばれて新憲法の起草委員会に加わり、二院制と大統領の普通選挙を擁護した。秩序党の側に立ち、1849年6月から10月まではオディロン・バロー内閣の外務大臣として対外問題の解決に尽力した。しかし1851年12月、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて拘束され、政界を退いた。以後は著述と研究に没頭し、1856年に『旧体制と大革命』を出版した。二月革命期を描いた『回想録』は没後の1893年に刊行されている。1859年4月、肺結核のためカンヌで没し、54歳であった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物