HISTORICAL PERSON · 1859年没

トマス・ド・クインシー

イギリスの評論家。マンチェスターの織物商の次男に生まれ、少年期から古典ギリシア語に秀でていた。

生涯
1859年没
死亡地
イギリス連邦(エディンバラ)
出生地
イギリス連邦(マンチェスター)
出典
世界地図
イギリス連邦(エディンバラ)

伝記

トマス・ド・クインシーは、1785年8月15日に生まれ、1859年12月8日に没したイギリスの評論家、随筆家である。1822年に刊行された『阿片常用者の告白』で最もよく知られ、この作品によって西洋における中毒文学の伝統を開いたとみる研究者も多い。

織物商トマス・クインシーの次男としてマンチェスターに生まれた。父は文芸にも趣味を持ち、1775年に匿名で旅行記を出したことがある。1793年に父が約3万ポンドの遺産を残して40歳で病死したため、4人の後見人の手に委ねられて育った。1796年、母が一家の姓をド・クインシーと改め、バースに転居した。幼い頃は病弱で、孤独な少年時代を過ごしたという。母は強い性格と知性の持ち主だったが、子供たちには愛情よりも畏怖を抱かせたようで、厳しく育てた。少年は古典語、特に古典ギリシア語に頭角を現し、校長から「あの少年にアテネの暴徒相手に熱弁を振るわせたら、あなたや私がイギリスの暴徒に演説するより上手にやってのけるでしょう」と評された。1799年頃にワーズワースとコールリッジの『抒情歌謡集』を初めて読み、深く敬愛するようになった。1800年にマンチェスター・グラマースクールに転校したが、大学進学をめぐる後見人との対立のため、1802年7月に出奔した。

出奔後は、代筆などで小銭を稼ぎながら北部ウェールズとロンドンで宿無しの放浪生活を送り、辛酸をなめた。宿屋を避けて農家に泊まるか自作の天幕で眠り、野いちごなどで食いつないだという。友人たちに偶然見つけられて連れ戻され、1803年、後見人と和解してオックスフォード大学ウスター・カレッジに入学した。在学中にワーズワース、チャールズ・ラム、コールリッジと交遊した。大学では「誰とも交わらない奇妙な人物」と見られたとされる。1804年秋、当時合法だった阿片を歯痛の鎮痛剤として使い始め、のちに中毒となった。結局学位は取らずに大学を去った。ワーズワースとの縁で1809年に湖水地方のグラスミアに定住し、1816年に結婚して、金が尽きるとまもなく本格的に文筆の仕事に取りかかった。妻マーガレットとの間に8人の子をもうけた。

1818年には保守系新聞『ウェストモーランド・ガゼット』の編集者になったが、締切を守れず、翌1819年11月に辞任した。政治的には右寄りで、貴族の特権を擁護したとされる。1822年の『阿片常用者の告白』は、晦渋かつ華麗な文体で自らの阿片中毒体験を綴って反響を呼んだが、世人を悪習に誘ったとの非難も蒙った。詩人のジェイムズ・トムソンやフランシス・トンプソンは、同書の影響で阿片に親しむようになったと述べている。ほかの著作に『マクベス』劇中の門口のノックについての随想などがある。ボードレールがこの随想を愛読し、ベルリオーズは霊感を得て『幻想交響曲』を作曲した。ブラックユーモアに満ちた評論「芸術の一分野として見た殺人」に感銘を受けた谷崎潤一郎は、1931年に自ら翻訳して雑誌に分載した。

1830年にエディンバラに定住し、1833年と1834年には借金や債務不履行の罪で起訴され、債務者避難所に逃れた。1859年12月8日、エディンバラで74歳で死去した。

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