伝記
ベルナルド(ベルンハルトとも)は、カロリング家出身のイタリア王である。797年に、カール大帝の子でイタリア王のピピンの庶子として生まれた。ピピンは806年の分割令でイタリアのほかバイエルンとその東方辺境も与えられていたが、810年にヴェネツィア攻囲で患った病のために世を去り、大帝より先に亡くなった。このため806年の取り決めは完全には実現しなかった。
父の死後、ベルナルドは祖父カール大帝のアーヘンの宮廷に引き取られ、イタリアの統治は大帝の側近アーダルハルトに委ねられた。その後いったんフルダ修道院に送られたものの間もなく呼び戻され、812年にイタリアの統治を任され、翌813年には正式にイタリア王の地位を与えられた。その領域はロンバルディアからフリウリ公領とその東方の属領にまで及ぶ、イタリア北部と中部であった。814年に大帝が没して叔父のルートヴィヒ1世が単独の皇帝となると、ルートヴィヒは改めてベルナルドのイタリア王位を認めた。同じ814年、ルートヴィヒは自分の長男ロタールにバイエルンとその東方の属領を与えており、南東の国境で両者の管轄がどう分かれるのかが複雑な問題になりつつあった。
817年、ルートヴィヒ1世は「帝国整序令」を定め、長男ロタールを共同皇帝とし、次男と三男をアクイタニアとバイエルンの王とした。バイエルン王には、カランタニアやボヘミアなどのスラヴ人・アヴァール人の従属地も管轄させたが、カランタニアはそれまでフリウリ公領の管轄下にあり、ベルナルドのイタリア王国に属していたため、領域の縮小を意味した。さらに整序令には、ルートヴィヒの息子たちと違ってベルナルドの名が記されず、イタリアはカール大帝とルートヴィヒの治世と同じやり方で治められるべきで、ロタールが後を継げばそれが守られるという、解釈の分かれる条項があった。ベルナルドは共同皇帝ロタールの下に置かれることを不満とし、顧問のエッギデオ伯や侍従レギンハルトらがこの取り決めは地位を脅かすと説いたという。ミラノ司教アンセルムやオルレアン司教テオドゥルフらの関与も疑われたが、確証はない。それまでの叔父との関係は協力的だったと見られ、実際の地位は整序令で変わらず、そのまま統治を続けることもできたはずだった。
それでも、ベルナルドがイタリアに「不法な」体制を築こうとしているという、一部は事実の報せがルートヴィヒに届いた。ルートヴィヒは素早く軍を南下させてシャロンに進み、不意を突かれたベルナルドは交渉のため出向いたが、首謀者らとともに降伏するほかなかった。一行はアーヘンに連行され、ベルナルドは反逆罪で裁かれ、廃位されて死刑を宣告された。ルートヴィヒはこれを目をえぐる刑に減じたが、この処置は激しい苦痛を伴い、ベルナルドは二日後に苦しみながら死んだとされ、没日は818年4月17日である。
ベルナルドはラン出身のクニグンダと結婚しており、息子ピピンは817年生まれでのちにヴェルマンドワ伯となり、その男系子孫は12世紀初めまで同伯位を継いだ。ルートヴィヒは同時に異母弟のドロゴ、ユーゴー、ティエリーを剃髪させて修道院に幽閉し、陰謀に加わった者らを厳しく罰した。イタリアの統治はまもなく長男ロタールに与えられた。821年に一部の共謀者が赦され、822年にルートヴィヒはアティニーで公に悔悛し、甥を罪深くも死なせたと宮廷の前で告白したという。
同じ年に亡くなった人物
- エルマンガルド・ド・エスベイ (818年没)
- アリー・リダー (818年没)
- ファドル・ブン・サフル (818年)
同じ地域に関係する人物
- ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主) (1349年没)
- Gaspare Aselli (1626年没)
- ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ (1516年没)
- チェーザレ・マルディーニ (2016年没)
- アルド・ロッシ (1997年没)