伝記
ヨーゼフ・カール・ベネディクト・フォン・アイヒェンドルフは、1788年3月10日、上シュレージエンのラティボール近郊にあるルボヴィッツ城で生まれたドイツの詩人・小説家である。当時この地はプロイセン王国に属し、現在はポーランド領にあたる。古い貴族の家柄で、爵位は男爵。父アドルフはプロイセンの役人で、母カロリーネはカトリックの貴族の出だった。城の改築に多額の費用をかけたため家計は苦しく、13歳の少年は日記に、父が債権者から逃れてブレスラウへ向かったと記している。幼い頃は城の周りの自然に深い愛情を注いで過ごし、2歳年上の兄ヴィルヘルムとともに、1793年から1801年まで家庭教師のもとで学んだ。日記は1798年から書き始めており、日々の天気や金銭の覚えから初期の詩まで、若い書き手の成長を伝える記録になっている。1804年には妹ルイーゼ・アントニエが生まれ、のちに彼女は作家アーダルベルト・シュティフターの友人になった。
1801年から兄弟でブレスラウのカトリック系ギムナジウムに通い、クラウディウスの詩やヴォルテールの叙事詩に触れた。学業よりも芝居を好み、日記には126回の観劇や演奏会が記されていて、モーツァルトへの愛着もこの頃に遡るという。その後、ハレ大学で法学や人文学を学んだが、1806年10月にナポレオン軍がハレを占領して講義が止まったため、1807年に兄とハイデルベルク大学へ移った。ここでは詩人レーベンと親しくなり、アルニムと出会い、ロマン派の中心人物ヨーゼフ・ゲレスの講義を聴いた。1808年に学業を終えると、パリ、ウィーン、ベルリンへ教養旅行に出て、ベルリンではブレンターノ、アダム・ミュラー、クライストらロマン派の書き手と近づいた。1810年にはウィーンで国家試験の修了証書を得て、兄はオーストリアの官職に就いたが、ヨーゼフは実家に戻って父の領地経営を手伝った。日記からは、アマーリエ・シャフナーへの思いや、1807年から翌年にかけてのハイデルベルク時代にカーテヒェン・フェルスターという女性に抱いた恋も知られる。
1813年から1815年にかけては、ナポレオン戦争のなかで軍役に就きながら長編『予感と現在』を書いて発表した。ルイーゼ夫人と結婚したのもこの頃とされる。この作品はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』と並ぶ教養小説と言われることもあるが、明確な教養小説の要素はゲーテほど濃くないため、幻想小説、ファンタジー小説として扱われることもある。1826年の中編『のらくら者の日記』によって名声を得た。粉屋の息子の主人公が父の仕事を捨ててウィーンの城の庭師になり、身分違いの恋に悩んでイタリアへ旅立つという筋で、放浪と恋を主題とする典型的なロマン派の作品である。トーマス・マンはこの作品を、民謡と童話の純粋さを併せ持つものと評した。ほかに『大理石像』『デュランデ城』などの小説、詩集がある。詩の多くは小説の中で登場人物が歌う形で発表され、『のらくら者の日記』だけで54編の詩を含む。
晩年は文学史や詩の研究に力を注ぎ、『ドイツ詩文学史』などを著した。1855年にルイーゼ夫人が病死し、まもなく彼自身も病にかかって、1857年11月26日に世を去った。彼の詩はシューマンの『リーダークライス』作品39やリヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』にも結びつけられて知られている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・リンド (1857年没)
- ウージェーヌ・シュー (1857年没)
- メアリー (グロスター=エディンバラ公爵夫人) (1857年没)
- ゾフィー・フォン・エスターライヒ (1857年没)
- フランツ・クリューガー (1857年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴワディスワフ・オポルチク (1401年没)
- ボレスワフ3世ロズジュトヌィ (1352年没)
- フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯) (1818年没)
- クリストフ・シャイナー (1650年没)
- オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1820-1875) (1875年没)