伝記
ボレスワフ3世ロズジュトヌィは、1291年9月23日に、レグニツァ=ヴロツワフ公ヘンリク5世の長男として生まれた。母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘エルジュビェタである。異称の「ロズジュトヌィ」は気前の良さを意味する。1296年に父が死んだとき、まだ5歳だったため、母と父方の叔父ボルコ1世が摂政として公国を治めた。ボルコ1世は1301年に急死し、母も1304年に世を去った。1302年、ボレスワフはプラハの宮廷に送られ、翌1303年1月13日にボヘミア王ヴァーツラフ2世の7歳の末娘マルケータと婚約した。結婚式は1308年に行われた。ヴァーツラフ2世が1305年に急死し、翌1306年に息子のヴァーツラフ3世が暗殺されると、ボレスワフは「ポーランド王位の相続者」を名乗ってボヘミア王位継承争いに加わったが、他の候補に太刀打ちできなかった。1308年にオパヴァを得たものの、1311年6月11日、銀8000本という莫大な賠償金と引き換えにこの地を手放した。
1311年、地元貴族の圧力に屈して公国を分割し、2人の弟ヘンリクとヴワディスワフに領地を分けた。長子として優先して選べたにもかかわらず、彼が自領に選んだのは最も小さく貧しいブジェクで、世人を驚かせた。ヴロツワフを得た次弟ヘンリク6世に政治的優位を奪われ、翌1312年には補償金の不払いを理由に末弟ヴワディスワフからレグニツァ公の座を取り上げた。同じ年、ヘンリク6世とともにマウォポルスカのヴワディスワフ1世と同盟してグウォグフの諸公を攻め、戦いは1317年まで続いた。その後ボヘミア王位の請求を再開しようとしたが、1321年から1322年にかけて、ボヘミア王ヨハンの留守中にボヘミアの統治を任されるという条件で要求を取り下げた。1321年からはグウォグフ諸公との戦争を再開し、1323年8月10日にヴロツワフで結ばれた和約で、ナムィスウフ公国などを割譲された。
1322年以降、ボレスワフはヴロツワフを欲して弟ヘンリク6世と対立した。1324年にヘンリク6世が神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の封臣となると、ボレスワフはヴロツワフへ軍を向けたが、堅固な城壁に阻まれた。1326年にはクロアチア総督ムラデン3世シュビッチの娘カタリナと再婚した。1327年にヘンリク6世がヨハンの封臣となったのちも、1327年から1328年にかけてヴロツワフ奪取を試みたが失敗した。1329年、シロンスクに戻った末弟ヴワディスワフがヨハンの名のもとにレグニツァの領有を主張し、戦う資産もないボレスワフは、5月9日、自らもボヘミア王の封臣となることを誓った。
独立を失ってからの彼の政治活動は目立たなくなった。贅沢好みの暮らしと、1335年のヴィシェグラード会議などへの旅行で財政は悪化し、増税や都市の売却でしのいだ。1337年には十分の一税の支払いが遅れて破門され、1338年には反乱を起こした長男ヴァツワフ1世にナムィスウフ公国を与えた。1340年には教会財産の没収で再び破門された。1342年に長男と次男ルドヴィクにレグニツァ公国の共同統治権を与えて退き、後妻カタリナとブジェクで暮らした。1344年1月19日には、ボヘミア王カレル1世に強いられ、グロドクフをヴロツワフ司教に売った。1352年4月21日にブジェクで亡くなり、遺体はルビョンシュの修道院に葬られた。破門は、息子たちの主張で死の床でやっと取り消された。
同じ年に亡くなった人物
- 忠定王 (1352年没)
- Joan of Valois, Countess of Hainaut (1352年)
- オビッツォ3世・デステ (1352年没)
- Khwaju Kermani (1352年)
- エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1285-1352) (1352年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ (1857年没)
- フリードリヒ・ルートヴィヒ (ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯) (1818年没)
- クリストフ・シャイナー (1650年没)
- フランツィシェク・ガヨウィニチェク (1995年没)
- ヴワディスワフ・オポルチク (1401年没)