伝記
ギヨーム・ド・ジェローヌは、カロリング朝期のフランク王国に仕えた貴族・武将で、第2代トゥールーズ公(在位790年〜811年)を務めた人物である。のちにジェローヌ大修道院を創設し、1066年に教皇アレクサンデル2世によって聖人とされた。オランジュのギヨームとも呼ばれ、武勲詩の英雄ギヨーム・ドランジュのモデルになった。生年は755年頃、没年は812年または814年の5月28日とされる。
8世紀半ば頃、フランス北部、あるいはブルゴーニュで生まれた。父はオータン伯ティエリー4世、母オードはカール・マルテルの娘であり、ギヨームはカール大帝の従兄弟にあたる。大帝の親族で信頼の厚い臣下として、若いころは宮廷で暮らしたと考えられる。775年頃にスポレートのキュネゴンドと結婚し、790年頃にはギブールを妻に迎えたとされる。788年、トゥールーズ伯ショルソーがバスク貴族のアダルリックに捕らえられ、ガスコーニュ公ルポ2世との同盟を誓った。このため大帝は、解放されたショルソーから伯位を取り上げ、790年に従兄弟のギヨームに与えた。ギヨームはガスコーニュの制圧に成功し、以後アキテーヌ王国の防衛の中心となった。790年代にはトゥールーズ伯、アキテーヌ公、セプティマニア辺境伯の地位にあったともいわれる。若い王ルートヴィヒを助言で支え、領土の防衛を整えてムスリムの侵入を退けたとされる。
793年、コルドバのヒシャーム1世がキリスト教徒に対するジハードを宣言した。10万の兵を集め、その半数はアストゥリアス王国へ、残りはナルボンヌを経てラングドックにまで侵攻した。ギヨームはオルビュー川のほとりでこれを迎え撃ち、激しく抵抗した。戦いには敗れたものの、ムスリム軍は消耗してスペインまで退いたという。801年にはアクィタニア王ルートヴィヒとともに諸民族の兵を率いて遠征し、ムーア人からバルセロナを奪った。
804年、ギヨームはロデーヴ近郊のジェローヌ(現サン=ギレム=ル=デセール)に修道院を創建した。財産を与え、近くのアニアーヌの修道院にいたベネディクトゥスに管理を任せた。贈られた財産には、カール大帝から贈られた聖十字架の聖遺物も含まれていた。806年には友人で、アニアーヌの修道院の創設者となったベネディクトゥスの勧めもあって、自ら創った修道院に移って隠居し、修道士となった。812年または814年の5月28日に世を去った。亡くなったとき、オランジュの鐘がひとりでに鳴ったという。804年1月28日の遺言には、妻キュネゴンドとギブール、両親、兄弟姉妹、4人の息子と娘一人、甥ベルトランの名が記されている。娘の一人キュネゴンドは、カール大帝の子であるイタリア王ピピンの息子ベルナールに嫁いだともいわれる。ギブールはムーア人の寡婦で、洗礼前の名はオラブルとされるが、正式な妻であったのか愛妾であったのかは分からない。
死後、遺体が目立つ場所に改葬されると巡礼者が増え、管理するアニアーヌの修道院長は強い不満を抱いた。双方の立場から多くの偽書が作られ、真相は不明のままである。ジェローヌは、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の主な中継点となった。10世紀または11世紀にはラテン語の聖人伝がつくられ、12世紀までには伝説が完成した。1140年頃の『ギヨーム武勲詩』をはじめとする武勲詩では、「フィエラブラ」や「低い鼻の侯爵」と呼ばれる英雄として描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- エズウルフ (810年没)
- ピピン (イタリア王) (810年没)
- Rotrude (810年没)
- ゴズフレズ (デンマーク王) (810年没)
- Shaqiq al-Balkhi (810年)
同じ地域に関係する人物
- ロベール・ドローネー (1941年没)
- ヴィーチェスラヴァ・カプラーロヴァー (1940年没)
- ジョゼフ・ウイラキ (2006年没)
- ジャン・ヴィラール (1971年没)
- アンリ1世・ド・モンモランシー (1614年没)