伝記
エアドウルフは、790年ごろから830年ごろにかけて活動が知られるノーサンブリアの王である。796年から806年まで王位にあり、廃位されて亡命した。808年から811年ごろ、あるいは830年ごろまで、再び王位にあった可能性がある。
8世紀後半のノーサンブリアでは、王が殺されたり廃されたりすることが続き、エアドベルト、エゼルワルド・モル、アルレッドの三つの王家をはじめ、複数の王家が王位を争っていた。788年9月23日、エアドベルトの孫である王エルフワルド1世は、パトリキウスのシッガによってヘクサム近郊で殺され、その従兄弟のオスレドが王となった。アルレッドの系統のオスレドは1年で廃され、778年に幼くして廃されていたエゼルワルド・モルの子エゼルレッドが復位し、エゼルレッド1世を名乗った。790年には、このエゼルレッドがエアドウルフの暗殺を試みた。エアドウルフが生き延びたことは、神の恩寵の印と見られたかもしれないとされる。796年4月、貴族の一団がエゼルレッドの暗殺を謀り、王位はオスバルドが継いだが、その治世はわずか27日で終わった。そしてエアドウルフが796年5月14日に王となった。
家族についての記録は少ないが、父も同じエアドウルフという名で、貴族であったことが知られている。王になったときには既に結婚していたが、妻の名は記録されていない。のちにカール大帝の庶出の娘と結婚した可能性もあるとされる。当時のノーサンブリアでは、王は単独で統治したのではなく、有力な聖職者や貴族とともに国を治めていた。国の有力者はラテン語の文書で、エアルドルマンにあたるドゥクスとパトリキウスという語で呼ばれる。歴史家アラン・サッカーは、後期のノーサンブリアにドゥクスの称号を持つ者がおよそ8人いたと見積もる。パトリキウスは一人だけだったらしく、末期のメロヴィング朝フランクの宮宰に近い地位だった可能性もある。教会は王に次ぐほどの大土地所有者で、頂点にはヨーク大司教が立ち、その下にリンディスファーン、ヘクサム、ホイットホーンの三人の司教がいた。大司教はエアンバルド1世が796年まで、その後エアンバルド2世が808年以降のある時期まで、続いてウルフシゲが830年ごろまで務めた。長く在職する高位聖職者が多かったので、王は前王の任命した人々とも協力しなければならなかった。
即位後まもない798年、エアドウルフはビリントン・ムーアで、貴族ワダと戦った。ワダはエゼルレッド王を殺した者の一人で、敗れて国外に追われた。801年には、軍を率いてマーシア王コーエンウルフに向かった。コーエンウルフがノーサンブリアの王位をめぐる他の候補者を支援していたためかもしれない。南の隣国マーシアは、エゼルバルド、オファ、コーエンウルフの治世を通じてアングロ・サクソン・イングランドの最有力国であった。オファは娘たちの婚姻でウェセックス王ベオルフトリックやエゼルレッドとの同盟を固めた。
エアドウルフは806年に廃位されて亡命した。フランクの記録によれば、808年に王国へ戻ったという。死去や治世の終わりについての記録は残らず、811年から830年までの年が挙げられている。マーシア王家の修道院であるブリードン・オン・ザ・ヒルに葬られた可能性がある。この修道院は聖母マリアと聖ハルドゥルフに捧げられており、複数の歴史家がこの聖人とエアドウルフを同一視している。
同じ年に亡くなった人物
- ゴズフレズ (デンマーク王) (810年没)
- ピピン (イタリア王) (810年没)
- ギヨーム・ド・ジェローヌ (810年代没)
- Rotrude (810年没)
- シュンケロス (810年没)
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