伝記
衛青は、前漢の武帝に仕えた武将である。字は仲卿、爵位は長平侯、諡は烈侯といい、河東郡平陽県の出身である。生年は不明で、元封5年(紀元前106年)に没した。母は婢であった衛媼で、幼少時に下級官吏の鄭季の家に引き取られていたため、父は鄭季とされる。鄭季の家では疎まれ、羊の放牧の仕事をさせられたという。のちに母のもとへ戻り、母方の姓である衛を名のったともいわれる。
幼いころから匈奴と境を接する北方で羊を飼っていたため、匈奴の生活や文化に詳しかった。奴隷のように扱われ、父などから虐待を受けることもあったという。甘泉宮を訪れた際に、ある人から貴人の相があり将来は出世すると言われたが、衛青は、鞭で打たれるような暮らしから抜け出せれば十分だと答えたと伝わる。
身分はきわめて低かったが、姉の衛子夫が武帝の寵姫となり、本人も騎射の名手であったことから引き立てられた。紀元前139年ごろ、平陽公主が歌い手の衛子夫を武帝に差し出した際、衛青も付き添いとして宮中に入り、建章営の騎士として仕えたとされる。衛子夫が寵愛を受けて身ごもると、衛子夫を憎む陳皇后の一族に拉致・監禁されたこともあったが、友人の公孫敖らの働きで救い出された。武帝はこれを受けて衛青を建章監・侍中・太中大夫に任じ、側近として重んじた。武帝は衛青の馬術や弓術、勇気、戦術の勘、統率力を高く買ったとされる。紀元前129年、匈奴が上谷郡を攻めると、車騎将軍に任じられて出陣した。公孫敖、公孫賀、李広とともに四つの隊に分かれ、それぞれ騎兵1万を率いたが、ほかの三人が敗れたり敵に会えなかったりしたなかで、衛青は匈奴の聖地である龍城を遠く奇襲して七百余人を討った。漢が匈奴に収めた最初のまとまった勝利とされ、衛青は関内侯となった。紀元前128年には衛子夫が武帝の長男を産んで皇后となり、この年、衛青は騎兵3万を率いて雁門郡から出撃し、数千の匈奴を討った。紀元前127年には騎兵4万を率いて雲中郡から高闕を経て隴西方面に進み、匈奴の楼煩王と白羊王の軍を包囲して、2,300人を討ち3,017人を捕らえたとされる。その後も匈奴の事情に通じていたことから十数回出陣して連戦連勝し、数万の首を討ち取り、現在の内モンゴル自治区バヤンノール市にあたる地を奪うなど大きな功績を挙げ、軍功により大司馬大将軍にまで昇った。出世ののち、武帝の姉である平陽公主を妻とした。彼女はかつて衛青を使用人として使っていた人物である。甥の霍去病が台頭すると、人気でも軍功でも霍去病に及ばなくなったが、霍去病が24歳で世を去ったため、衛青は軍の第一人者であり続けた。
幼少期の苦労のせいか、将軍となっても威張らず、武帝の顔色を気にして独断で動くことを避け、兵卒にも気軽に接した。政治にはあまり口を出さず、『史記』に残る行動としては、武帝が豪族を陵墓の周囲へ移住させた際に、任侠の郭解は豪族ではないから除くべきだと助言した程度である。自殺に追い込んだ形になった李広に負い目があったのか、その子の李敢に切りつけられても黙っていた。これを聞いた霍去病は怒り、李敢を殺害した。世間の人気は、若くして活躍し夭折した霍去病のほうが高かったという。
墓は霍去病の墓の隣、武帝の茂陵の近くにある。子の衛伉は巫蠱の禍に連座して処刑され、衛氏はみな殺されたと記される。のち、衛子夫の血を引く宣帝の時代に、衛青の孫が許された。