伝記
エイレーネーは、752年ごろにアテナイで生まれ、803年8月9日にレスボス島で亡くなった東ローマ帝国イサウリア朝の皇后で、ローマ帝国の歴史で初めて単独で皇帝となった女性である。名はギリシア語で「平和」を意味し、渾名のアテナイアは、生地がアテナイであることによる。生い立ちについての資料はほとんど残っていない。『テオファネス年代記』には、彼女自身が孤児であると語ったという記録がある。有力なアテナイの家柄の出とされ、皇帝コンスタンティノス5世が皇太子レオーン4世の妃を選ぶ際、美人を競う催しの末に選ばれたと伝えられる。769年、十六、七歳ごろに首都へ向かい、聖ステファノス聖堂で結婚した。ただし、結婚の年を768年とする資料もある。
彼女は聖画像を敬う信仰を持っていたが、聖像破壊運動を進めていた夫の家に入るにあたり、聖像崇敬を行わないと誓わされたという。翌771年1月14日に息子コンスタンティノス6世を産み、775年に夫が即位して皇后となった。780年に夫が急死し、息子がわずか九歳で即位すると、彼女は摂政となって政治を取り仕切った。夫の異母弟たちを旗印にした陰謀も持ち上がったが、これを抑え込んだ。784年には、総主教パヴロス4世の引退を受けて、俗人の官吏だったタラシオスを後任に据えた。タラシオスは教皇ハドリアヌス1世と連絡を取り、787年に第2ニカイア公会議が開かれ、754年の会議の決議が無効とされ、聖像崇敬は公式に認められた。彼女はほかにも修道士への迫害をやめさせ、ストゥディオス修道院を再建して、同院を帝国の学問の中心にしたとされる。
息子が成長すると、母子の仲は次第に険悪になった。790年には息子が実権を握ったが、792年のブルガリア遠征の失敗などで人望を失い、母は共同統治者として呼び戻された。797年、彼女は軍を動かして息子を捕らえ、その目をくりぬいて追放し、みずから皇帝の座に就いた。この前例のない即位は西方で認められず、800年には教皇レオ3世が、コンスタンティノス6世の後継者としてフランク王カールに皇帝の冠を授けた。のちに彼女は、帝国の統一をもくろんでカールとの結婚を提案したとも伝えられるが、その真偽は確かでないとされる。
外交では戦争より交渉で国境を固めようとし、一時はアラブ人の小アジア襲撃を止め、バルカンではブルガリア人やスラヴ人を退けて、トラキアとマケドニアの沿岸を確保したとされる。内政では大幅な減税や教会・修道院への援助、貧民救済を行ったが、それが国の財政を悪化させたとされる。イコン破壊派への厳しい弾圧により軍の力も弱まり、即位の翌年からアッバース朝が小アジアへ攻め込み、領土は削られていった。地方の軍管区は彼女を皇帝と認めずに反乱を起こし、皇帝直属の部隊にも批判的な者がいた。802年10月31日、財務長官ニケフォロスが宮廷のクーデターを起こして彼女を廃位し、イサウリア朝は断絶した。健康が衰えていたところを衝かれたとも伝えられる。まずプリンキポ島へ、11月にはさらにレスボス島へ流され、そこで亡くなった。遺体は9世紀後半に歴代皇帝の墓所である聖使徒教会に移された。同時代の年代記作者テオファネスや修道士テオドロスはおおむね好意的に書き、多くの教会を建てた敬虔な人物としても記憶され、正教会では聖人として敬われている。一方、西方ではその治世は長くカール大帝の影に隠れてきた。
同じ年に亡くなった人物
- Al-Fudhayl bin 'Iyyadh (803年没)
- ジャアファル (803年没)
- カルダム (803年)
同じ地域に関係する人物
- Parthenius I of Constantinople (1646年没)
- カブリアス (紀元前357年没)
- ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ (1453年没)
- ヒュペルボロス (紀元前410)
- フィラエニス (紀元前300)