伝記
カルル・パヴロヴィチ・ブリュローフは、1799年12月12日(グレゴリオ暦12月23日)にサンクトペテルブルクで生まれたロシアの画家である。カールやブリュロフとも表記され、友人たちからは「偉大なカルル」と呼ばれた。国際的な名声を得たロシア初の画家とされ、ロシアの新古典主義からロマン主義への過渡期における重要人物に数えられる。画家であると同時に素描家でもあり、ロシア美術史上で最も偉大な視覚芸術家の一人として記憶されている。
父は、アカデミー会員で木彫・版画家でもあったパヴェル・ブリュロー(1760〜1833年)で、ユグノーの血を引くフランス系の人物であった。このため本人も1822年まではフランス語読みのシャルル・ブリュローと名乗っていた。幼いころからイタリアへ絵を描きに行きたいと願っていたという。1809年から1821年まで帝立芸術アカデミーで学んだが、師が教え、兄アレクサンドルも勧める古典主義は決して受け入れなかった。将来を約束された想像力豊かな学生として課程を終えると、名をあげるためロシアを発ってローマへ向かい、1835年まで滞在して肖像画家、風俗画家として活動した。歴史的題材を描き始めたことで、芸術家としての栄誉が高まっていった。
最も有名な作品は、1830年から1833年にかけて描かれた『ポンペイ最後の日』である。巨大な構図をもつこの作品は、プーシキンとゴーゴリによって、ルーベンスやヴァン・ダイクの傑作に比べられた。イタリアで大評判を呼び、ブリュローフは当時のヨーロッパでも卓越した画家として名声を確立した。完成後は意気揚々とロシアの首都へ帰国し、貴族や知識人層に多くの友人を得て、帝立芸術アカデミーにも高い地位が用意された。この作品では、行動のドラマ、ロマン主義的な光の効果、彫刻のような立体感をもつ人物表現が組み合わされているとされる。作品はロシアでもヨーロッパでも画家に大きな名声をもたらした。この画家にまつわる逸話は、トルストイの評論や『芸術とは何か』にも登場する。
1836年から1848年までアカデミーで教えるあいだに、新古典主義の簡素さとロマン主義の気風をよく結びつけた手法を築いた。写実を好む傾向は、心理への深い洞察によって満たされていた。作風は初期の生の喜びにあふれたものから、後期の複雑な心理描写へと進んだとされ、のちのレーピンらの成果を先取りするものと評される。ロシア・ロマン主義末期の頂点にあって、世界の調和と美の感覚に代わって人生の悲劇と葛藤の感覚が現れる時期を示し、中心主題は英雄たちの闘争ではなく、巨大な人間集団の運命であった。儀礼的な公式肖像と親密な小品の肖像の双方に優れた名手であり、多くの追随者や模倣者を生み、ロシアの画家たちに大きな影響を与えた。
聖イサアク大聖堂の天井装飾に取り組んでいたとき、健康が突然悪化した。主治医の助言に従い、1849年にロシアを離れてマデイラ諸島へ向かい、余生の3年間をイタリアで過ごした。1852年6月11日(グレゴリオ暦6月23日)、ローマ近郊のマンツィアーナ村で没し、ローマのプロテスタント墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- スヴァインビョルトン・エイイルソン (1852年没)
- ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン (1852年没)
- アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵) (1852年没)
- ラニハイロ (1852年没)
- マーガレット・テイラー (1852年没)
同じ地域に関係する人物
- Sandro Penna (1977年没)
- スパルタコ・バンディネッリ (1997年没)
- ルイージ・ロンゴ (1980年没)
- ウィタリアヌス (ローマ教皇) (672年没)
- マルクス・アウレリウス・クレアンデル (190年没)