伝記
アーサー・ウェルズリーは、1769年にアイルランド王国の首都ダブリンで生まれ、1852年9月14日に没したイギリスの軍人・政治家・貴族である。アイルランド貴族の初代モーニントン伯爵ギャレット・ウェズリーの三男で、母はアンといった。誕生日と生誕地には諸説あるが、1769年4月29日にダブリンのアッパー・メリオン・ストリートで生まれたとする説が有力とされる。ロンドンで初等教育を受けたのち、1781年にイートン校へ入学した。成績は並みで、血気盛んでよく喧嘩をしたという。後年には「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と評したと伝わる。父の死で学費に困った母の指示で退学し、ブリュッセルの乗馬学校を経て、フランスのアンジェの陸軍士官学校に学び、フランス語を身につけた。
1787年に18歳でイギリス陸軍に入隊し、アイルランド総督の副官を務めたほか、1790年から1795年にはアイルランド議会議員にも選ばれた。1794年には第33歩兵連隊を率いてフランドルへ赴き、フランス革命戦争で初めて実戦を経験した。戦いはイギリス軍の惨敗に終わったが、混乱した撤退戦の中でもこの連隊は高い規律を保ち、ボクステルではフランス軍に一斉射撃を浴びせて前進を遅らせ、友軍の撤退を助けた。のちに本人は、敗戦のおかげで自軍の欠点を知り教訓にできたと語っている。1796年には東インド会社が統治するインドに派遣され、兄ウェルズリー侯爵がインド総督となると、そのもとで征服戦争の指揮を執り、1799年のマイソール王国侵攻や1803年の第二次マラータ戦争などで戦功をあげた。1805年に帰国すると、1806年に結婚し、トーリー党候補として庶民院議員に当選して政界へ進んだ。
1808年、半島戦争が始まるとイギリス軍を率いてポルトガルに上陸し、フランス軍を破った。1809年にポルトガル駐留軍の総司令官として再び派遣され、タラベラの戦いの勝利で子爵に叙された。その後も国境の要塞攻略を進め、1812年のサラマンカの戦いでフランス軍を破ってマドリードを占領し、侯爵となった。1813年のビトリアの戦いでジョゼフ・ボナパルト率いる軍を撃破して元帥に昇進し、1814年にはウェリントン公爵に叙された。帰国した際には国民から熱狂的な歓迎を受けた。1815年、エルバ島を脱出したナポレオンをブリュッセルで迎え撃ち、6月18日のワーテルローの戦いでプロイセン軍のブリュッヘル元帥と協力して決定的な役割を果たした。戦後はフランス占領軍総司令官として寛大な占領統治を行い、1818年に帰国した。
帰国後は政界で活躍し、1828年に首相となった。カトリック解放には慎重だったが、情勢の変化に応じて1829年に解放法案を可決させた。しかし党内の亀裂が深まり、1830年11月に内閣は議会で敗れて総辞職した。1834年には暫定政権を組織したのち、ピールに首相を譲り、以後も一貫してピールを支えた。1842年に陸軍総司令官に再任され死去まで務めたが、あらゆる軍制改革に反対して旧式の編成に固執し、クリミア戦争での英国将兵の死傷者を増やしたといわれる。1852年9月、ケントで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ウォルター・フォワード (1852年没)
- ローズ・フィリピン・ドゥシェーン (1852年没)
- フランシスコ・ハビエル・カスターニョス (1852年没)
- カレル・ボジヴォイ・プレスル (1852年没)
- グザヴィエ・ド・メーストル (1852年没)
同じ地域に関係する人物
- グレアム・チャップマン (1989年没)
- ジョージ・ロジャー (1995年没)
- ピーター・シレット (1998年没)
- ジョゼフ・リスター (1912年没)
- ジョン・ラボック (1913年没)